【NB20th】NA登場前夜(E-1)

【NB20th】NA登場前夜(E-1)

この記事を読むのに必要な時間は約7分です。

NB20周年貴島さんインタビュー、まずは初代ロードスターのエピソードからお伝えします。

貴島さんは、ロードスター以前のコンセプトカーから開発に携わられていますが、その頃はいちエンジニアとしての参加であり、開発リーダー(主査)は平井敏彦氏がされていました。当然のことではありますが、貴島さんは平井さんをリスペクトされています。


市販に至るまで、順調ではなかったNAロードスターの開発秘話はさまざまなメディアで語られているので、皆さまも見聞きした話があるかと存じます。それを改めて、貴島さんの視点から回顧していただきました。

平井敏彦氏 略歴

1961年 東洋工業(現マツダ)入社
1978年 マツダオート石川へ販売出向
1980年 広島へ帰任
1986年 商品企画部開発推進本部
初代ロードスター(NA)担当主査を経てAZ-1主査へ
1993年 マツダ退職 大分大学に就任
1999年 大分大学退職

参考リンク

以下より貴島さんのインタビュー、スタートです。

参考:貴島孝雄氏プロフィール
→ https://mx-5nb.com/2019/12/29/kijima2017-0/

IADコンセプトカー「V705」


IAD(※International Automotive Design:イギリスの自動車開発委託企業)のコンセプトカーができたのは、平井さんが主査を受ける前の話になる。P928という開発コードで当時の商品開発上流にある部門がおこなっていたもので、上席だった松井さんという方が担当されていた。

日本では「赤い」ファミリアが発売される前、シビックなどの大衆車がFFになっていった時代に、時代遅れのFRファミリア「X508」をベースにするということで、スポーツ用FRの足をイギリスに送って欲しいと依頼があった。そこで想定車重を聞いて、車高はあとで合わせる前提で、改造したRX-7(SA)の足を配送した。従って、ロードスターのプロトタイプはRX-7と同サイズで、意外と大きかった。


それからマーケティングリサーチをするためにコンセプトを幾度も作っており、上流部門が量産を決まるまでは1986年から3年くらい時間がかかった。

その少し前、当時のマツダは業績が悪化していて、エンジニアへ「君たちが企画したクルマが売れない。自分で売ってこい」と何度もディーラーへセールス出向を指示していた。それでセールスの才能を発揮して月6台売る者もいたけど、私はトラック開発が忙しくて肩を叩かれることはなかった。

平井さんが主査に手を挙げた


その時は平井さんも肩を叩かれていて、石川県のディーラーに出向したが・・・全然クルマが売れなかった。どこでもそうだろうけれど、素性もわからない者へ地元の人は心を開かないし、やっとマツダのクルマを購入するとなっても「値引き」の話しかされない。そんな辛酸をなめたから、彼は「よそにないクルマ」を作ろうという思いが、とにかく強かった。

もともと上流の人だから、出向からマツダに戻った際にロードスターの開発主査として手を挙げられた。平井さんとはIADのやり取りをしていた頃からシャシー開発として交流をしていたけれど、ここから関わりが深くなっていった。

しかし量産なんて決まる前だから、古いクルマやコンセプトカーを保管する6階建ての倉庫、通称「リバーサイドホテル」でプランの検討をおこなっていた。私の席の横にはガードレールがあって、そこにドラフターを置いて仕事をした。製品倉庫とは違うから、エアコンはあるけれど内貼りや天井は無い、そんな部屋だった。


ただ、倉庫にはリフターが付いているので参考にしたいクルマをすっと上げられる。つまり、ドラフターの横にクルマがあるような、理想的な環境だった。当時は1983~4年なのでRX-7(FC)やタイタンの開発をやりながら、ロードスター開発は通常勤務の合間に参加していた。

選択と集中の哲学


普段の平井さんは、広島弁の普通のおじさんで、エンジンや操縦安定性を極めるようなことは専門ではなかった。むしろ、もっと上流の「パッケージング」や「商品企画」ができる人だった。クルマ全体を広く見ることが出来るので、「どれもいい顔をしたら駄目だ、八方美人ではクルマはできない」と、理論の裏付けを持って語れる人で、何を守って何を捨てるか、選択と集中の哲学を持っていた。

例えば私が「低重心で、ヨー慣性(※)を小さくないとクルマはキビキビ動きません」と伝えると、「そうじゃのう」と主査としてキーパーソンを押さえに行く。主査は上流部門とも話せる立場だから、役員や各部門の人格者の賛同を得ながら、プロジェクトを望む方向へ調整してくれた。

※ヨー慣性:参考→https://mx-5nb.com/2020/01/20/moment-of-inertia/

例えば「樹脂バンパー」の情報をもとに、生産技術へ野球のバットを持って慣性モーメントの説明に向かった。グリップではなくヘッドを持つと、バットは簡単にクルクル振れる。逆にグリップを持ったら重くて、キビキビ振ることができない。「クルマも同じだ。遠くにあるのは何だ?バンパーでしょう。軽くしなければ駄目だ!」と現場に説いて回る。先方には「こんな安定しないもの(材質)で何をいうか!」といわれたけど、バットを振ってみろと現場で示す行動力があった。これがNAにブロー(成型)バンパーが採用されたいきさつになる。

パワープラントフレーム


私はサスペンション、足周り担当だからミッションやデフの話は関係ないけれど、もともとはRX-7でやろうとエンジンの駆動ロスを減らすためのパワープラントフレーム(PPF)構造を考えていた。トルクで車軸に振動が出てしまうワインドアップ角を解消するため、エンジンとデフを直結して、角度をなるべく抑えるためのアイディアだった。

平井さんはこの理論を理解して、ロードスターのPPF制作をエンジン部門に提唱してくれたけど、先方では「こんなバカな構造が出来るか」と聞く耳を持たなかった。平井さんは、そんな彼らを説得するのに時間をかけるなら、私がやれと指示をしてくれた。図面管理や実験は向こうで行うのだが「こんなものは出来ません、ミッションが壊れます」といってくる。私は、その(解析)モデルがおかしいと説明した。

その頃はFEM計算(シミュレーション)で最悪値を算出するけれど、最悪過ぎて壊れるようなモデルで計算をしていた。両端支持構造を片持ち支持で計算するから、そもそもモーメントの取り方が違う。彼らも「ギアや歯車」はやるけれど、「張り」や「面」については意外と詳しくはなかった。私の計算データでやっと納得をしてくれたのか、それで押してくれることになった。


プロトタイプのPPFもそれで制作したけれど、問題なんて当然出ない。結局PPFはエイトもセブンも、そして歴代ロードスターにも装着されるものになっている。

平井さんは「これがいいと説得しても、足を引っ張るやつは必ずいる」といっていた。(続く)

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