【NB20th】血を流す思いで作った、初代ロードスター(E-2)

【NB20th】血を流す思いで作った、初代ロードスター(E-2)

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NB20周年インタビューは前回と同じく、初代ロードスター主査であった平井さんのエピソードです。

補足として、NAロードスター乗りであれば必読の「ユーノス・ロードスター―日本製ライトウェイトスポーツカーの開発物語(三樹書房)」中の開発エピソードにも、パッションを持ったエンジニア有志が集まる反面、反対意見・批判勢力が社内には存在したと記述されています。

そのうえで、平井さんは下記のような独白もされています。

(引用)
二年間のデーラー出向中、「トヨタ/ニッサンと同じようなクルマならマツダを買う必要はない!」というお客様の一言で目が覚めた。思い出したくない場面の多い出向だったが、この体験がなければロードスターは生まれていなかったと断言してもいい。

では、このようなエピソードを踏まえて、貴島さん(エンジニア)から見た平井さんは、どのような方だったのでしょうか。以下よりインタビュー、再開です。

参考:貴島孝雄氏プロフィール
→ https://mx-5nb.com/2019/12/29/kijima2017-0/

3,000円のケーブルに大反対


ニュートラルな操舵にするためには、旋回理論からいっても前後同じ質量、つまり50:50の重量配分が理想となる。これはまさにロードスターのフィロソフィーで、それを守るためエンジン位置を下げ、エンジンルームに置けば安く済むバッテリーも後ろに積み、そのポジティブケーブルに3,000円のコストをかけた。パワートレイン部門からは「ポジケーブルをどこに通すのか、バカじゃないか」と大反対された。

いっぱしのエンジニアになればこういった理論は当然わかるのだが、シャシーエンジニアにレイアウトの決定権はないから、プランを実行する権限がない。つまり、トランクルームへバッテリーを搭載する決定は主査以外にはできなかった。これを実現するには、主査が「50:50」の理論と効果を理解して、そうまでしても「やる」と責任を持ってコスト配分を決断していく。

実は、3,000円のケーブルは考えられないくらいの高コストだった。パッテリーは太い線である必要もあるし、普通のトランクには通す場所も存在しない。水素ガス対策も必要だからシールドタイプの高いバッテリーを手配する必要もある。


反対派は「バッテリーを前に置いて55:45のクルマでのいいじゃないか、乗って差があるのか?」と主張をしてくるけど、彼らはグリップ内でしか走らないからその「差」は絶対に理解出来ないし、実際にサーキットで尻を振りながら走る顧客は1%もいないかも知れない。

貴島はおかしい、会社を潰す気か。(平井)主査は交代だ、なんていう人もいた。平井さんはこのクルマでマツダをクビになるかも知れないと、奥さんに相談していた。

平井さんだからやり切れたこと


当時はFFファミリアなどの1.5~2リッターエンジンが中心で、そもそもマツダにはFR用のエンジンが無かった。

横置きFFならばディストリビューター(点火装置)は入るけれど、縦に置いたらボンネットから飛び出てしまう。従って、低くマウントするための様々な知恵を出してもらい、1.6リッターエンジンをFR化してもらった。FR用のクラッチハウジングなんて存在しなかったので新規で作って、実は繋ぎのところが弱いので補強も入れている。

ヨー慣性を小さくするための樹脂バンパー、バッテリーを後方に設置してまでこだわった重量配分。それを実証するために、試作車をピアノ線で釣って慣性モーメントの計算を行った。ヨー慣性は周期測定でわかるけど、そんなものはないからクレーンからクルマを吊るして実際の動きを測定した。こんなどこのメーカーもやらないようなことを、平井さんは全部乗ってやってくれた。

ダブルウィッシュボーンの開発


しかし、ダブルウィッシュボーンに関しては「貴島君を100%信用しているけれど、経営陣が納得しない。そちらで説得をしてくれ」といってきた。開発の完成まで待って欲しくても「ダブルウィッシュボーンが安く、軽くなるわけは絶対ない。そんな馬鹿な話を誰がいうのか」と、経営陣は私を信用していなかった。

彼らはストラットの画も描いていたし、アメリカからはFFの案まで来たけれど、このオープンカーはFRで行くと決めてあったから、我々はそんなものを作る気はなかった。

コストを計算し、重量を見積もり、データを持って行くとなると、その時点ではストラットより重くなるのが目に見えていた。完成の見通しはあっても、結果はまだ見せられない。経営者に「努力値を認めて欲しい」ともいえないから、私は絶対に説明に行かなかった。しかし、いつの間にか平井さんの信用でダブルウィッシュボーンがやれることになっていた。

このようにNAの開発現場はやりたいように出来たけど、軽さとコストは相当に努力した。ダブルウィッシュボーンは前後マウント共通で、雌型は前後裏返したら使えるし、アームも左右共通。ロアもプレスは共通で、プレスのトリミングで右左を分けて型具削減するなど、多くのアイディアを出していった。

簡単に出来るようなものに魅力はない。それをやるのがエンジニアだし、エンジニアに楽をさせていいものが出来るわけがない。理論はこうだとわかっても、アイディアが無いと成立はしない。それをひねり出すのが私たちの本分であり、それを楽しいと思う者でないとエンジニアはできない。

人車一体ではなく人馬一体


この企画をこのコストで、そして楽しいクルマを作ります。だから数百億使わせて欲しい・・・なんて上程では誰の信用も得ることはできない。「こんなコウモリ傘を指したようなクルマ、顔を洗って出直して来い。こんなのがトヨタにあるか、日産にあるか、海外でもつくっているか!」と平井さんは社内でいわれ続けていた。

彼は「物事の本質に対して欲をかくな、お客さまは本質にずれた事をやったら必ず見抜く」と常にいっていた。創造的破壊とも表現もしていたけれど、過去のものに固執せず時代に合わせるべきとしいう信念があった。

【値引きで勝負されるようなクルマ】を作りたくないと行動したのが平井さんだから、努力の結果が見えないならば、努力をする人間かどうかを経営者に判断してもらって、プロジェクトGOサインを貰う。そうやって完成したのがロードスターだった。


ロードスターは最初「人車一体」というコンセプトだった。上流では有名なフィッシュボーンチャートを使って企画するステージがあったけれど、【感性】で考えると、クルマではなく馬のように、血が流れていることを表現するために「人馬一体」とした。

平井さんは、血を流す思いで作ったロードスターを「工業製品ではあるけれど、生き物の様な、血の通った馬としてドライバーに乗って欲しい」といっていた。

貢献と会社のポジションは違った


平井さんがマツダを退職され、大分大学にいる時も交流を続けていた。まだプレリリースのみで街を走っていなかったNBに試乗をしてもらったり、ツーカーな関係だったので奥さんの手料理を頂いたりしていた。平井さんから提供されたNAの贈呈式をやったのは、ずっと後になる。

「そろそろわしも、このクルマを乗らん事にする。後輩たちが有効に使ってくれ」といってくれて、広報もNAを残したかったから、ナンバーを取りなおして広島本社の銅像の前で式を行った。(※現在、マツダのネオグリーン(Vスペシャル)広報車両になっています)

世が世なら、平井さんは社長ではなくとも役員になれるくらいの貢献をした方だった。貢献と会社のポジションは違うという事かもしれない。ディーラー出向時代にボロクソにいわれ、その反骨心からプロジェクトに手を挙げた。全て反対されている状況の中で、どう完成への道を切り開いていったか。

彼自身の人間ドラマが、十分人を感激させるものであった。

補足:

このインタビューは時系列を整えて公開していますが、実は「平井さんの話」をお聴きする前に「感性エンジニアリング」、つまり楽しさの根源である「感動」とか「感激」はどう形作るか、という話をしていました。そのうえで出てきたエピソードが、平井さんの人間ドラマです。

今やロードスターだけではなく、全てのマツダ車のキャッチフレーズになった「人馬一体」には、こういった背景があるのです。

では、このスピリットを受け継ぎ主査となられた貴島さんが、どのようにロードスターの方向性を決めていったのか、次回に続きます。

<追記>
2023年4月、平井氏の訃報のお知らせがありました。偉大なるプロジェクトリーダーのご冥福をお祈り申し上げます。

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