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今回はNBロードスターの当時の開発背景、フォード経営の傘下にあったマツダの話です。
近年はスカイアクティブや魂動デザインといった、クルマ自体の高質化が評価されているマツダですが、1990年初頭は黒歴史とされる5チャンネル体制をスタートさせていました。5チャンネル体制とは、マツダ、アンフィニ、ユーノス、オートザム、オートラマという販社チャネルの増強により取扱車種を増やして、収益増をおこなうという企画でした。
しかし、次々と販売されるクルマは同じ車種のいわゆるバッジチューン、外装や仕様の変更で水増するような手法が嵩み、ラインナップ拡販を急いだ影響からか作り込みも甘く、ファン目線でも微妙なマーケティングととらわれていました。
そして、日本のバブル経済崩壊と共に、この5チャンネル体制は崩壊し、マツダには未曾有の経営危機が訪れます。ここで倒産を救ったのが米国フォードであり、同社からの資本投入とともに1996年には社長(&経営陣)を招き入れ、フォード主導の経営再建を始める事になりました。
当時の貴島さんは、RX-7(FD)の主査とともに、95年からロードスター主査を兼任されていました。ロードスター視点でいえば、96年はシリーズ2(NA8C)が現役だった時代です。海外資本の経営再建がおこなわれるなか、ロードスターはなぜリストラされなかったのか。その辺りから話は始まります。
以下、貴島さんのインタビュー再開です。
参考:貴島孝雄氏プロフィール
→ https://mx-5nb.com/2019/12/29/kijima2017-0/
5チャンネル戦略
あの5チャンネル戦略は、エンジニアも異を唱えることが出来なかった。広告代理店のコンサルティングではトヨタの様にブランドが成り立てば、経営がバラ色になるという話だった。マツダは大きくコストをかけて、経営会議も通してまで依頼をしているから、止まることはなかった。
開発側も「ユーノスとオートザムで、この期間に毎年3車種を作ります」などの提案をおこなっていた。アマティ(※プレミアムブランド)を立ち上げるためのディーラーも準備していたし、5チャンネルを失敗しなかったら、マツダは今もトラック生産を続けていたかも知れない。
そもそも「ブランド戦略」なんて大切なことを他社に依頼したこと自体が間違いだった。広告代理店はビジネスだからそれなりの提案をしてくるけれど、責任を取ることはない。内部で慎重に分析しなければいけない重要戦略を、他社から貰った安易な話に乗ってしまい、頼んだ方が結局負けてしまった。
これはバブル崩壊も影響した。本来は企業として景気予測をしなければならないし、仮にピンチになっても会社が傾かない準備をすることが必要だった。結局3年間で4,000億も借りたけど、バブル崩壊でクルマが売れなくなり、借金の利子の返済の為にマツダは生活することになった。
仮に販売数が半減すると予想出来ていたら、5チャンネルなんてやらない。ずっとバラ色のバブルで、年間1割ずつ利益が増すなんて予想だったから、想定以上のマイナスになったギャップは大きかった。これが予想できなかったのが当時マツダで、会社としての甘さだった。
「ランティス」も「ユーノス500」も、ブランドを増やさなくても完成していた。本当にもったいなかった。
変わるか死ぬか
そのような経緯もあり、フォードがマツダを立て直しに来た。
会社が傾きそうな状態だから、下手したらロードスターが廃止になる可能性があったかも知れない。銀行は年間トータルで500億の投資可能額などを提示してくれるけど、主軸車種を優先して予算を取ると、スポーツカーまでは予算がなかなか回ってこない。ただ、返済をすれば銀行はまた融資をしてくれるから、今年は駄目だけど3年後に予算が回ってくるなんて期待もできた。
フォードが来て、最初に現場へいってきたのは「Change or Die(変わるか、死か)」で、それが口癖だった。今の取組みや考え方を変えろ、そんな甘い考え方だったのだから、変わらないと死ぬぞということだ。「I will Die(死んだろか)」っていってやろうかと心の中で思っていた。
しかし、マツダを建て直すためにはイエッサーでやらないといけない。「君たちはそういう未達の状態、甘い進捗でやっていたからこういう会社になったのだ。やり切らなければ駄目だろう」というロジックで、会社を立て直すためには、これだけの収益が無いと赤字が解消できない・・・とグラフを提示される。翻訳を通して、「理解が出来ないなら倒産してしまう」と再三いわれており、全くその通りだった。
コミットする組織への変貌
彼らはリーダーのいったことにイエッサーである派閥を作る。その仲間になったらいいポジションに配属されるので、裏は全部繋がっていた。フォードからマツダに出向した人たちはそういう繋がりだし、あちらではマネージャークラスでも、こちらでは部長クラスになり、派閥の動向を逐一チェックしていた。また、どんどん入れ替わって長くても3年しか所属していなかった。
彼らは、確たる主張が出来るビジネス理論のベースを持っていた。日本の会議では根回しで1が0.9だとしても決議されるけれど、彼らは1のものは1であり、0.9ならば、なぜ低いものを選ぶのか、裏があるのではないかと嫌がった。
一般的なビジネスは売値とコストがあり、差額が大きいほど利益がある。当然彼らはコストを下げるための指示をしてくるし、我々はそれをコミットしなければ承認されない立場であった。
幸いにして、マツダはきちんと融資額を返済できる、銀行にとっての優良企業だった。経営陣からは開発側に「次のモデルチェンジで、こういう投資額で、この期間でトータル何万台のクルマを売ると企画して、収益をあげなさい」とファイナンスのギブンがくるから、その見積もり提出をする。するとさらにフォードから「予算を1割削減せよ」と指示が来る。それを見越して予算計算を行った。
無かったルールを定義する
彼らは基準を作ったら、絶対にそれを守らせる。基準が無ければ、無いのがおかしいのだから作るように指示をしてきた。
例えばマツダ車の「ペットネーム」を持つのは国内だけで、海外では「マツダ626」などの数字表記になる。したがってエンブレムだけでも地域により違うものになっていた。そこで「ファミリア」と「323」二つのエンブレムを廃止したり、「mazda」表記はリアの片側に一個だけ付けなさいと基準を作る。ハンドルセンターとタイヤセンター、ボンネットとトランクリッドにひとつずつマツダマークを絶対付ける、それ以外は一切付けるな、付けないのも許さないといった基準を設けていった。
NBロードスターで困ったのは、トランクリッドに付けるマツダマーク。この基準はデザイン確定した後に決まったのだけれど、不文律だから陳腐な物になってでも付けろという指示があった。仕方が無いので林さん(※NBチーフデザイナー)となんとか、小さいこのサイズでいこうと装着した。
実は、ロードスターは少なくともアメリカ市場で台数も出ていたし、儲かっていた。他社ではスポーツカーが儲からないなんて話も聞くが、ロードスターほど儲かるクルマはなかった。ご存知かも知れないがNAは販売直前に価格を10万円上げた。つまり、あれより10万安くても十分利益が出ていたので、フォードは数字が間違っているのか?と驚いていた。(続く)
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