とあるロードスター乗りの後悔(備忘録)

とあるロードスター乗りの後悔(備忘録)

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繰り返される歴史、胸に刺さるブーメラン


今でこそNAからNDまで全世代の「ロードスター」を心から愛していると自信をもって公言できる私ですが、かつては頑ななまでにユーノス・ロードスター(NA)こそが至高と信じ、他の世代を認めようとしない、いわゆる「ユーノス信者」でした。

当時の自身の言動を振り返ると、その多くが現在の自分に「壮大なブーメラン」として突き刺さり、顔から火が出る思いです。しかし、悲しいかな歴史は繰り返すものなのでしょうか。「〇〇はロードスターじゃない」といった類の言葉は、形を変え、対象を変え、今でもロードスターのコミュニティの片隅で(時には大きな声で)囁かれています。

この記事は、そんな過去の自分への自戒と、そして願わくば、未来の誰かが同じ轍を踏み、後になって後悔することがないようにとの願いを込めた、ひとつの備忘録です。

「マツダ・ロードスター」の大前提


まず、このトピックの出発点として明確にしておきたいのは「マツダ・ロードスター」の定義です。

それは、マツダ株式会社が企画・開発し「ロードスター」(海外名:MX-5 Miata)の名を冠して販売するスポーツカーシリーズそのものを指します。極論をいえば、マツダが将来、デミオのようなフォルムのオープンカーを開発し、それを「ロードスター」と命名したならば、それがその時代の「マツダ・ロードスター」です。

クルマはフルモデルチェンジを迎えるたび、「こんなのクラウンじゃない」「これはスカイラインの姿ではない」「シビックは変わってしまった」といった、往年のファンからの嘆きや否定の声が上がるのは、ある意味で風物詩といえるでしょう。20年、30年と特定の車種を愛し、乗り継いできたオーナーの方々が、その深い愛情ゆえに「俺は認めない!」「俺たちがこのブランドを育てた!」と声を上げたくなる心情は、痛いほど理解できます。

しかし、私たちはあくまで消費者であり、いちファンである立場です。つまり、商品企画や製造に直接関与しているわけではありません。メーカーが「これが新しい〇〇です」と世に送り出した以上、(それを受け入れるか否かは個人の自由なうえで)そのクルマが「〇〇である」という事実は揺るぎません。ファンの声がいかに大きくとも、メーカーという「お釈迦様の掌の上」での出来事だ、という認識は必要でしょう。


もちろん、メーカーとて安易な考えで伝統ある車名を次世代モデルに与えるわけではありません。社内には様々な意見や葛藤があり、市場の期待、技術の進歩、法規制の変更、そして何よりも「事業として成立させる」という厳しい現実があります。それら全ての課題を乗り越え、「これならば顧客の期待を超えられるはずだ」という確信のもとに、新しいモデルは商品化されていくと類推できます。

したがって「車名の継承」は、そのクルマが持つ本質的なキャラクターやアイデンティティを最大限に尊重しながら行われているはずです(そう信じたいものです)。だからこそ、仮にデミオの屋根が開いたとしても、安易に「ロードスター」とは名付けず、「ロードスターの精神を受け継いだ・・・」位の表現に留めるのではないでしょうか。(余談ですが、クラウンやスカイライン、シビックといった名車たちが、なぜ現在の姿に進化したのか、その背景にあるメーカーの思想や市場戦略を読み解くのは、それはそれで非常に興味深いものです)

ただの老害になっていないか?


新しい価値観、変化に対して最初から否定的な態度で接し、自らの知見をアップデートしようとしない。これは、旧来のオーナーやファンが陥りやすい、非常に厄介な状態です。

「俺が知っている〇〇とは違う」「私の価値観には到底合わない」という感情そのものは自然なものですが、それを絶対的な基準として一方的に断罪し、「昔は良かった」と過去にのみ固執する姿勢は、ある種の「こだわり」といえるかもしれませんが、見方を変えれば進歩を拒む「思考の硬直化(=老害)」に他なりません。

もちろん、先人たちの知恵や経験から学ぶべきことは無数にあり、それらを尊重し、継承していくことは極めて重要です。しかし、それらの意見を単に鵜呑みにすることもまた危険です。

情報が玉石混淆(ぎょくせきこんこう:すぐれたもの、つまらないものが、入り混じっていること)で飛び交う現代社会においては特に、発信される情報が、発信者自身の一次的な体験に基づいているのか、それとも雑誌やインターネットで得た二次情報、あるいは単なる個人的な思い込みに過ぎないのか慎重に見極める必要があります。「俺はこう思う」という言葉の裏付けが、実は「曖昧なイメージ」だけだった、というケースは少なくありません。


つまり、様々なレビュー記事やインプレッションもあくまで発信者(執筆者)の一つの見解として捉えるべきでしょう。たとえそれがプロの自動車評論家の言葉であってもです。

例えば、元レーシングドライバーが「もっとパワーが欲しい」と評価しても、全てのユーザーがサーキット走行を主目的にするわけではありません。市街地走行がメインであれば過剰なパワーはむしろ「扱いにくさ」に繋がる可能性があります。どのような状況で、何を基準に評価しているのかを理解しなければレビューの本質は見えてきません。

「昔のレビューでは酷評していたのに、同じ評論家が数年後に『大人のスポーツカーとして魅力的』などと語っている」・・・そんな笑い話はザラにあるのです。


また「このクルマはバーゲンプライスだ」という評論家の言葉も、額面通りの価値を保証するものではありません。400万円、500万円という金額は、絶対的な貨幣価値としては依然として大金なはずです。

潤沢な資金を持つ人や、全てをクルマに捧げる覚悟のある人にとっては「お買い得」かもしれませんが、平均的な収入の個人にとっては、依然として高嶺の花であることに変わりはありません。若者のクルマ離れの一因には、こうした価格設定が「自分事」として捉えられない側面があるのかもしれません。

結局のところ最も信頼できる判断基準は、自分自身が実車を見て、触れて、運転して「どう感じたか」ということです。それすら行わず、聞きかじりの情報や漠然としたイメージだけで知ったかぶりをして、さらに他者を批判するのは、まさに「老害」と呼ばれる行為(あるいはネット弁慶)に他なりません。

この記事を読むあなたが、このような意見に惑わされる必要は全くないのです。

告白、かつて私は痛々しい「ユーノス信者」でした


私が人生で初めて自分の意思で購入したクルマは、中古のユーノス・ロードスター Vスペシャル(NA6CE)でした。自分の名義で所有するクルマというのは、ネジ一本に至るまで、全てが自分の責任と自由になります。そんな工業製品の塊を手に入れた高揚感を、今でも鮮明に記憶しています。

私がこのVスペシャルを手に入れた頃には、既にNBロードスターもデビューをしていました。当時の私はその「新型ロードスター(NB)」が大っ嫌いで、しかも「ユーノス」がマツダのいちブランドだったことは朧(おぼろ)げにしか認識していない「にわか」でした。したがって、偏ったイメージと聞きかじりの知識で武装して、実に痛々しい発言を繰り返していました。

例えば・・・

・1トンを切らないとライトウェイトスポーツじゃない
・NA8はマツダ販売だから、真の「ユーノス」はNA6CEのみ
・MR-Sの深緑(Vエディション)はロードスターのパクリ(※そもそもロードスターが英LWSのパク・・・)

NAロードスター第一主義を掲げる「ユーノス信者」(いわゆるNA原理主義者ですね)として完成してしまった私は、「マツダはユーノスブランドからロードスターを強引に奪い取り、リトラクタブルヘッドライトを捨てて妥協した、カッコ悪い模倣車(NB)を作っている!」「あんなもの、ロードスターとして認めない!」など、今思い出しても顔から火が出る、超絶ダサく、勘違い甚だしい暴言を重ねていました。(当時からの友人には、あそこからよく変わったと、いまだに笑われています)

さらに、既に消滅していた「ユーノス」ブランドのクルマに乗っている自分は「人と違う選択をした特別な存在」と倒錯した優越感に浸り、実用性を無視したモディファイを施しては「スポーツカーは扱いにくい方が通好み」と痩せ我慢をして、真夏の炎天下でも「オープンカー乗りが屋根を閉めるなど軟弱者のすること」と意地を張り、肌を真っ赤にしながら意気揚々とドライブしていました。

これら全て、本当に恥ずかしい限りで・・・「俺は認めない」と声高に叫ぶ人々の、典型的な姿だったのです。

「ユーノス教」の呪縛から解放された、ふたつの転機


こんな痛い私が「自分がヤバい」と気づいたのは、大きくふたつの理由があります。

ひとつは、愛車ユーノス・ロードスターを文字通り「乗り潰した」経験です。

峠道で自損事故を起こしたり、免許取りたての学生さんにリアフェンダーに突っ込まれたり、路面の段差を越えるたびにボディのどこかしらが悲鳴を上げる・・・そんな満身創痍のユーノスでしたが、それでもなお「理屈抜きに楽しいクルマ」であることに変わりはありませんでした。


しかし、ある出来事が私の目を覚まさせました。見た目重視で装着していたS800仕様のドアミラーを、あまりの視界不良に耐えかねてノーマルに戻したのです。すると、驚くほど運転がしやすくなり、愛車が以前にも増して「楽しく」感じられるようになりました。この時、ハッと「自分はメーカーが考え抜いて市場に送り出した『素の状態』のロードスターを、きちんと味わっていなかったのではないか?」と気づいたのでした。


ノーマルのロードスターは一体どんなクルマなのだろう?新車のロードスターはどんな乗り味だろう?そのクルマの本質を知ろうともせずに、愛情だけを語るのは、あまりにも浅薄ではないか。そう自問自答を始めた頃には、NAもNBも海外では同じ「MX-5 Miata」という名で愛されている事実を学んでいました。

そこから、マツダがなぜリトラクタブルヘッドライトを廃止してまでNBロードスターへモデルチェンジを断行したのか、その理由を知りたくなり、最終的には新車のNBロードスターを購入するに至りました。NBロードスターはNAの反省を踏まえ、まずはノーマルの状態で「素性」を徹底的に楽しもうと心に決め、最初の1年間で7万キロ以上を走破するほどのめり込みました。


ふたつ目は、ロードスターから「離れた」経験です。

理由は、(多くの人が経験するであろう)家庭環境の変化により2シータースポーツの所有が困難になったことでした。しかし、スポーツカーへの憧れを捨てきれずRX-8に乗り換え、その後、より実用的なメルセデスやデミオ、そしてベリーサへと乗り継いでいきました。

クルマというのは実際に所有し、日常を共にして初めて見えてくる側面があります。この「ロードスターから降りた」期間は、私にロードスターというクルマの持つ絶対的な魅力と、同時にその限界やネガティブな側面(例えば、安全性、積載性、高速巡航時の快適性など、そして決してエコなクルマではないという事実)を、改めて客観的に認識させてくれました。

それでもなお、「理屈抜きに楽しいクルマに乗りたい」という私の渇望を満たしてくれる存在として、ロードスターは唯一無二でした。そして驚いたことに、あれほど信奉していたユーノス・ロードスター(NA)でも、当時最新鋭だったNCロードスターでもなく、一度手放したNBロードスターこそが、自分にとって最も自然体で、最も身近な「楽しい相棒」であるという事実に気づいたのです。

NBロードスターを再び手に入れてから10年以上が経ちますが、洗車をするたび、その惚れ惚れするようなスタイリングに、今でも飽きずにニヤニヤ頬が緩んでしまいます。


結局のところ、何が言いたいのか。それは、「ユーノス教」の信者として他の世代を頑なに認めようとしなかった、過去の自分の視野の狭さ、排他性が、今でもトラウマとして心に深く刻まれているということです。

私がNAロードスターで感じていた「楽しさ」の本質は、NBロードスターにも間違いなく継承されていました。いや、むしろ私自身の理想としていたロードスター像は、NBの方が近かったのかもしれない・・・その単純な事実に気づくまでに、私はあまりにも長い時間を浪費してしまいました。

もちろん、NAロードスターが自動車史に残る傑作であることは疑いようもありません。しかし、それに劣らずNBも、そしてもちろんNCやNDも、マツダエンジニアの哲学と情熱が凝縮された、とんでもなく素晴らしいクルマといえるでしょう。

当サイトが考えるロードスターという存在


ロードスターというクルマの素晴らしい特徴のひとつに、成熟したコミュニティの存在があります。その恩恵を受け、私は幸運にも歴代のさまざまなロードスターを運転する機会に恵まれました。

NA、NB、NC、ND。それぞれエクステリアもインテリアも、エンジンもトランスミッションも、電子制御の介入度合いも異なります。当然、オーナーの好みによって施されたモディファイやセッティングの違いもありました。しかし、どの世代のロードスターのステアリングを握っても、毎回必ず同じ感覚に包まれます。

それは本当に驚くべきことで「ああ、これは紛れもなくロードスターだ!」という、魂が震えるような直感的な確信です。

ごく当たり前に加速し、ごく当たり前にコーナーを駆け抜け、ごく当たり前に停止する。その一連の動作(所作)のなかに、数値やスペックでは表せない「ロードスターらしさ」のDNAが、はっきり刻み込まれているのが分かります。例えるなら、新型iPhoneに機種変更しても、その日から戸惑うことなく直感的に使いこなせる、あの感覚に近いかもしれません。

ロードスターの「当たり前」の気持ちよさが、世代を超えて継承されているのです。しかし、残念なことに、ロードスターのコミュニティですら、以下のような硬直化した意見を時折耳にすることがあります。

こんな事を押し付けていませんか

・純正維持が一番偉い
・カスタマイズをしないのはありえない
・純正車高のミーティング参加は恥ずかしい
・挨拶を返さないのはマナー違反
・屋根を開けないロードスターは意味がない
・ロードスターでオートマに乗るのはアホ
・M2は孤高の存在で絶対神、格が違う
・NBはリトラを廃しつまらない乗り味になった
・NCはデカくて重く、電子スロのセッティングがアホでレスポンスが悪い
・NDの電動ステアは、ダイレクトさがない
・NDの1500ccがベストセッティング、NCやNDの2リッターは無駄馬力
・NEが電動化されるなら、ロードスターとは認めない


これらの意見は、ロードスターというクルマが持つ「本質」ではなく、あくまで個々の「ディテール」に着目したものではないでしょうか。「俺はそうは思わない」という一個人の感想としては尊重されるべきかもしれませんが、その裏に「そんなことないんだけどなぁ」という声もあり、それを忘れてはいけないと思うのです。

ぶっちゃけ個人的に思うのは、ロードスターはカッコよくて、二人乗りで、屋根が開いて・・・つまり「走って楽しい」、それだけでいいと思っています。もちろん、「楽しい」という言葉の尺度は人それぞれですから、その解釈ですら千差万別でしょうけど・・・

過去の自分への戒め、そして未来のロードスターファンへ


繰り返しになりますが、私はかつて「ユーノス信者」として、ユーノスロードスター以外を認めない、排他的な人間でした。当時の自分の浅はかさを今でも深く後悔していますし、その「ユーノス教」という呪縛から解き放たれた元・信者だからこそ、他の世代のロードスターに「あれは認めない」と断じる意見が、いかに虚しく、そして将来的に自分自身を傷つける「ブーメラン」になる可能性をお伝えしたいのです。

クルマの設計や評価は時代と共に変化します。ただ、少なくともマツダ・ロードスターというクルマの芯にある「楽しさ」は、30年以上にわたり、間違いなく承継され続けているでしょう。

もちろん「〇〇が変わった」「ここが先代とは違う」といったディテールを深掘りし、比較検討することは、自動車マニアにとって尽きない楽しみの一つであり、健全な探求心です。しかし、そのディテールの違いをもって全体を否定し、「〇〇はロードスターじゃない」と断言することは、少なくともこの「NBロードスターアーカイブ」というサイトにおいては、過去も、そしてこれからも一切ありません。私は歴代全てのロードスターに対し、最大限のリスペクトを持ち続けることを宣言します。


そういえば、約30年前のユーノスロードスターが登場した際、英国ライトウェイトスポーツカー乗りの先輩たちが、「ユーノスなんて我々の模倣をしただけの、にわかだ。あんなものが文化として根付くはずがない」といった趣旨の発言をしていました。実際、当時はそう見えていたのは事実でしょうけれど、今のロードスター界隈を見て、彼らはどう思うでしょうか。少しは認めてもらえたでしょうか・・・

最後に、あなたにとって「ロードスター」とは、どんなクルマですか?

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NBロードスター(NB6C)の魅力

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