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2024年2月22日、東京株式市場では午後に日経平均株価が34年ぶりに史上最高値を更新、初めて39,000円台に乗せました。
その34年前、1990年当時の日本は不動産や株式などの時価資産価格が経済成長以上のペースで高騰していました。いわゆるバブル経済(1986-1991)とされるものです。その後、バブルは崩壊して未曽有の経済危機を迎えるのですが・・・当時を知る方が日経平均高値更新のニュースが「あの頃を思うと感慨深い・・・」と漏らしていたのが印象的でした。
しかし、バブル景気は実体経済から大幅にかけ離れていたとはいえ、好景気である環境は日本企業のあらゆるチャレンジに繋がりました。
そんななかご紹介したいのは「アマティ(AMATI)」。これはバブル経済真っ只中の1991年にマツダが発表、1994年から北米で展開する予定だったプレミアムブランドです。コーポレートカラーはダークグリーン。
その背景には、ホンダのアキュラ(1986)、トヨタのレクサス(1989)、日産のインフィニティ(1989)といった国産メーカー発の北米市場プレミアムブランドで一定の成功があったことや、イケイケドンドンだった当時のマツダ経営拡大計画(5チャンネル戦略)のなかで、オートザム、ユーノス、アンフィニ、オートラマ、M2に次ぐブランドに位置付けられました。
しかし、バブル経済崩壊によるマツダの経営不振により全ての計画がキャンセルされ、1992年10月にはアマティブランドの廃止が正式発表されました。なお、アマティ向けの車両は既に完成しており、目玉となっていたフラグシップカーは量産目前になっていました・・・
国産プレミアムブランド誕生の時代背景
オイルショックの傷跡が癒え始めた1980年、日本の自動車生産は1,000万台を突破、米国を抜いて世界一になりました。反面、米国ビック3(GM、フォード、クライスラー)は赤字に転落・・・
1991年、彼らのロビー活動によりレーガン政権は日本車の輸出規制を発動、92年以降の3年間は上限168万台(輸入数約1/3)に制限する法案を決定します。いわゆる日米貿易摩擦です。
一方、日本はバブル経済による「底なしの資金」による好景気に浮かれており、少し前のオイルショック時代に生みだした低価格なエコノミーカーから脱却すべく、あらゆる面でスペシャリティなクルマが水面下で開発されていました。
特に、富裕層に向けた市場では外車コンプレックス(特に欧州車)があり、BMW3シリーズが六本木カローラなんて言われていた時代です。それに負けるな、追い越せと高級車需要の高まりは頂点に達し、セルシオ、シーマ、NSXなど頂点を極めるクルマが誕生する土壌となっていたのです。
したがって、輸出規制に対応するため普通車は現地生産で賄い、輸出対象車は「単価が高いクルマで稼ぐ」作戦に繋がっていったのでした。
マツダのハイブランド戦略
バブル経済時代のマツダの目標は、トヨタや日産に次ぐ「第3位の自動車メーカー」を志していました。
規模もリソースも大幅に足らないにもかかわらず、80年代後半からはマーケット獲得のため積極的な拡大・多角化計画に着手していきます。販売チャネルを増やせば好景気だからクルマも売れる、そんなロジックでマルチチャネル(5チャンネル戦略)を実行に移たのでした。
普通車のマツダ、コンパクトカーのオートザム、プレミアムのユーノス、スペシャリティのアンフィニ、インポートカーのオートラマ、カスタマイズ部門のM2と次々に販売チャネルを設立していきました。振り返ればかなり無謀な施策に思えますが、それだけの好景気パワーがバブル経済には潜んでいたのです。
一方、北米では先んじて展開していたホンダ「アキュラ(1986~)」ブランドのスマッシュヒットや、トヨタ「レクサス(1991~)」の展開開始など、ライバルが北米高級車市場で成功の兆しをみせていました。それを横目に北米マツダでは1988年に高級車開発を検討する「プロジェクト・ペガサス」がスタート。責任者は北米マツダ幹部のディック・コリバー氏が任命されました。
当時、国内でもマツダが高級車部門を計画している噂が絶えずありましたが、90年まではかなり激しく否定していました。その理由は、日本とアメリカの経営陣でプロジェクト・ペガサスにおける温度感で大きな隔たりがあったからです。実際、国内のマツダは既にスタートしていたマルチブランド戦略で手が回らなくなっており、猫の手を借りながら車両設計と量産設備を整えていました。つまり、それどころではないと、本気で考える人間は少なかったのです。
一方、北米マツダも当時はあくまで「マーケティング戦略」を担う支社という位置づけであり、現地スタッフでもこのプロジェクトを真剣に受け止めない者がいたことも事実で、「日本人がコリバーをクビにするために作り出したクソ面倒な仕事」・・・ともいわれていました。
しかし、神風が吹いてしまいます。89年に発売開始された「MX-5 ミアータ」・・・つまりNAロードスターが予想外の大ヒットを起こしてしまったのです。それまで北米では存在感が希薄だったマツダから、誰もが待ち望んでいた小粋で安価で、しかもこだわりを感じるクルマが登場し、圧倒的な支持を得ることになりました。
ちなみにどれくらいのインパクトがあったかというと、大前提ですがロードスターは儲かるように開発されています。1台あたりの原価がもろもろで12,000ドル。販売価格が13,800ドルなので、ミアータ1台あたりの利益が当時の為替換算で約25万円。国内のロードスターは1台あたりの利益が約34万円なので、その他市場も合わせて89年〜91年で合計約450億円となり、ロードスターはこの3年間でマツダ全体の2割以上の利益を上乗せした計算になります。5チャンネル政策を始めた1989年はマツダ全体の連結決算も前年比208.6%の売り上げを記録しています。
※公表されている財務指標の推移、生産台数の推移、為替レートより試算
そうなると国内外のマツダ関係者が「行けるのではないか?」とテンションが上がってしまい、ペガサス・プロジェクトを本気で進める機運が高まっていったのでした。
そこで、ミアータの大成功からブランド・エクイティ(名前の認知、知覚品質、ロイヤリティ、ブランドイメージ、ブランド資産)を導き出し、プロジェクト・ペガサスは1989年に「アマティ部門」へ昇格。マツダ本社からも1991年8月に北米でアマティのブランド展開を正式発表、1994年春のローンチがアナウンスされました。
感性に訴えるアマティ、ミアータとの関係性
ラテン語で「愛される」という言葉が由来の「アマティ(=AMATI)」。歴史あるヴァイオリンビルダーからもインスピレーションを受けているとされています。
「夕日が映える色とりどりのタペストリー、カシミアの繊細な肌触り、熟したリンゴの酸味、祖母のオーブンで焼かれる感謝祭の七面鳥からくる香りの刺激的な感動」・・・アマティは、そんな【感性に訴える】ブランドと定義されています。
一方、アマティ部門のクルマはマツダの既存ディーラーで併売される予定であることや、「アマティ(AMATI)」が「ミアータ(MIATA)」のアナグラムであることを指し、「ローンチはミアータにあやかったインスピレーションモデルか?」「ミアータの成功を意識しすぎ」など囁かれていました。
また、インフィニティのマーケティングを模倣して、期待を高めるために「取り扱う車両は公表しない」戦略も不評でした。そんな折、北米でプレミアム展開を行っていたプジョーやスターリング(英ローバー)の撤退が続き、本当に大丈夫なのか?とジャーナリストからはポジティブな受け止められ方をしませんでした。
ただし、断片的な情報は流れてくるもので「最高出力280馬力の4リッターW12エンジンを開発中」であるとか、「初期ラインナップは4台からスタート」などの情報リークがあり、フラグシップ予定の「ペガサス・サルーン(※ここまで噂があった)」にそれなりの期待感を持った報道が続いたことも事実です。
アマティ・ラインナップ車両
北米専用のプレミアムブランドとなるアマティでは、アメリカらしい大きくてビックパワーのマッチョなクルマがフラグシップになる予定ではありましたが、日本国内における「ユーノス」のブランドイメージに近しく、ラインナップも基本的には同じものが用いられる予定でした。
したがって、ユーノス系列の車両は他地域(欧州やアジア・オセアニア)に輸出されていますが、北米輸出は控えられていたのです。そこで、アマティのローンチで販売予定とされた4台をご紹介します。
AMATI 300(国内名:ユーノス500)
1992-1999(国内は1996で終了)
Dセグメントに属する4ドアサルーンであり、国内ではユーノス専売モデル。欧州ではXedos6(クセドス6)として販売されており、アマティ用に控えていたため北米輸出はありません。ユーノスのキャッチフレーズ「10年基準」をもとに開発され、エクステリアの塗装はマツダが特許取得したばかりの、鏡面のような滑らかな仕上がりが得られる「高機能ハイレフコート塗装」が施されています(※マイナーチェンジで通常の塗装ラインに・・・)
オーガニックシェイプの美しいプロポーションは、かの巨匠ジョルジェット・ジウジアーロが「小型クラスでは世界で最も美しいサルーン」と評しています。
AMATI 800(国内名:ユーノス800/ミレーニア)
1993-2003
※AMATI 500の説あり
ユーノスの「10年基準」をもとにフラッグシップとして開発されたセダンです。欧州では「Xedos9」(クセドス9)として販売されています。V型6気筒の量産車初のミラーサイクルエンジンを積んでいます。アマティのブランドキャンセルにともない、ミレーニアのマイナーチェンジモデルが「MAZDA929(センティア)」に代わり北米輸出されています。
その際、当時のジャーナリストからは「品質、洗練さ、豪華さのレベルは他のマツダ製品をはるかに超えており、真の高級車と比較できる」と好評でした。
北米マツダではミレーニアのプロモーションで「我々は高級部門やその他の諸経費ではなく、クルマに資金をつぎ込んだ」とアマティへの皮肉が込められていました。
2000年のビッグマイナーチェンジではフロントフェイスが変更され、当時のマツダ統一デザイン「コントラストインハーモニー(ファイブポイントグリル)」が採用され、ヘッドライト周りも大幅にリファインされました。
AMATI RX-8(国内名:ユーノスコスモ)
1990-1996
コスモはユーノスブランドのスポーツ・フラッグシップとして登場したクーペで、キャッチコピーは「クーペ・ダイナミズム」。仮想敵はレクサスSC(ソアラ)とされています。ロータリーエンジン専用車であり、既存の2ローター(13B-REW)に加えて世界初となる3ローター(20B-REW)のシーケンシャルツインターボ・ロータリーエンジンが設定されました。
しかし、当時は圧倒的なパワーを受けられるトランスミッションがなく全グレードAT仕様になります。パワーと引き換えにした極悪燃費が有名で、市街地走行での実燃費は2km/Lが平均で、条件によっては1km/L台に達する、オーナーを試すスペシャリティクーペです。
また、世界初のGPSカーナビを搭載したり、高級クーペらしくイタリアで誂(あつら)えたウッドパネルや、恐ろしく上質なレザーを用いて高級ホテルのようなキャビンに仕上がっています。余談ですが、足周りはロードスターチームが開発協力をしています。
AMATI 1000【未発表】(国内名:ユーノス1000)
※画像は2代目センティア(HE) AMATI 1000はアンフィニ、マツダモデルの計画もあった
アマティのフラッグシップとして開発されていたのが「アマティ1000」で、仮想敵はレクサスLS(セルシオ)になります。公的には何も情報公開されていません。
しかし、自動車雑誌には内外装のレンダリングが掲載されたり「マツダ929(センティア)」に似ているが、より太いピラーと長く水平なボンネットを備えている」などの情報が残っており、デザインも2代目センティア(HE型)が継いでいるとされています。ボディは5m超えの国内では異例のビックサイズ(全長5,140mm×全幅1,870mm×全高1,400mm)でした。
また、大きな特徴としては国産市販車初のV12エンジンを搭載する予定であり「2つのK型エンジン(V6エンジン)を組み合わせ作成されたV12を搭載する予定だった」とされています。映画マッドマックスをみても分かる通り、北米では気筒数が多いことが大正義なのです。
「2つの1.8リッターユニットを組み合わせた3.6リッターエンジンはできていた」「ブロックは最大5.0リッターまで考慮されており、北米は2つの2.3ロッタ―を組み合わせたから4.6リッターユニットになるだろう。」など、具体的なバリエーションも明らかになっています。
既に開発最終段階でテスト走行を繰り返していたアマティ1000のプロトタイプは280馬力を余裕で達成。ベンチテストでは350馬力になっていました。フェラーリのようなサウンド(排気音)を奏でており、ベンチマークのメルセデスSクラスやレクサスLSと比較しても引けを取りませんでした。
アマティ・ブランドのキャンセル
91年、まさにアマティブランドを発表した直後に、日本のバブル経済は崩壊しました。そこからはご存じの「失われた10年」とされる景気停滞期間に突入します。同時期、北米も湾岸戦争の余波を受けて購買意欲が落ち込んでおり、高級車販売どころか自動車市場全体も市場が大幅に縮小していきました。
景気低迷が加速するなかマツダも例に漏れず厳しい状況となり、そのままでは拡大戦略で肥大化した販売ラインナップの生産ラインが維持できないことが判明しました。普通に考えても当時、ユーノスロードスター、ユーノスコスモ、MX-6、MX-3(AZ-3/プレッソ)、AZ-1、RX-7とスポーツ・スペシャリティの車種を6種類生産してたなんてとてつもない状態ですよね・・・
同時期、北米マツダでもミシガン州に設立したばかりの工場における品質問題に頭を抱えており「日本の経営陣は無能だ」と非難しつつも何とか生産能力を維持させていました。そんな状況では500億円以上投資していたアマティプロジェクトを後回にするしかなく、代表のコリヴァー氏は「ブランドを立ち上げの資金が足りない」と日本側に訴え続けました。
アマティ撤退の決定打となったのは「アマティ1000」の生産中止でした。量産開始に必要な5,000万ドル(当時の円換算で63億円:2023年のレート換算で1億1034万ドル/162億円)が工面できず、92年の決算では営業利益が少なくとも1/3になると予想されていたため、首が回らなかったのです。ちなみに連結決算では前年比68.7%、翌93年は-126.1%かなり厳しい状況になっています。
そして、マツダは1992年10月20日、アマティブランドの廃止を正式発表しました。
なお、アマティで販売される予定だった2車種は生産しており、フラグシップの「アマティ1000」は走行テストの最終段階、防府工場では製造準備ができていました。カリフォルニアの広告代理店ではマーケティングキャンペーンのために6,000万ドルの予算計上がされており、67社の販売代理店に配布するためのマーケティング資料およびパンフレットも準備済みでした。
しかし、アマティプロジェクトに関わるスタッフはほぼ全員が解雇され、プログラムを主導していたコリヴァー氏も1994年にマツダを退職しました。
その後、既にマツダの株式24%を所有していたフォードは、95年にかけてさらに12%を増資。マツダは実質フォード傘下の企業となりました。フォードはマツダの経営不振を脱却させるために幹部を派遣。人員、車種の大幅なリストラや肥大したマルチブランド戦略の廃止、モータースポーツの廃止、必要ない施設の売却など、大鉈を振るうことになります。
アマティのDNA、V12エンジン
アマティプロジェクトの閉鎖後、北米マツダはアマティ1000用のV12エンジンが生産準備を終えていたことを認識しており、少なくとも日本のエンジニア側は準備万端でした。そこで、新開発エンジンにかけた投資を回収する方法を模索するなかでフォード傘下になったコネを使ってジャガーへ接触。しかし「英国車に日本製エンジンを搭載することはない」と拒まれてしまいました。
さらに北米マツダは「プロジェクトA007」としてV12を搭載する4ドアクーペを設計します。94年にはインテリアも備えた実物大モックアップを完成させました。4枚のドアはバタフライタイプで、後部座席のルーフをかなり低く抑えたクーペスタイルです。
車格やコンセプトはアストンマーチンのラピードクラスを意識している2+2クーペであり、後の「RX-8」を彷彿とさせるものでした。まさに10年早く設計していたのですが、提案はキャンセルされA007は日の目を見ることはありませんでした。
結局、フォードのフラグシップに転用される噂もありましたがそれも実現せず、アマティ1000のDNAは完全に途絶えてしまいました。その後、マツダはフォードグループのエコノミーカーやグローバルプラットフォームの設計を担うことになり、独自の好圧縮エンジン(スカイアクティブ)が生まれるのは20年以上先の話になっていきます。
もし、何らかの形でこのV12エンジンが市販車に載せられていたら、マツダ車のチューニングシーンは違ったかも知れませんね・・・
ちなみに、アマティでは「W12エンジン」が用意される予定だったという話もありますが、それは間違いです。1300ccのB3エンジンのクランクシャフトを結合し、アルミニウムのブロックでマグネシウムのシリンダーヘッドへセラミックコーティングを施して・・・なんて情報あくまでブラフであり、単なるモックアップがリークされたのでした。
その後のアマティ
マツダは公式にアマティブランドの車種を公開していません。事実、92年のブランド中止記者会見以来「アマティ」の存在自体が語られたことはなく、広島やカリフォルニアで公開されているマツダミュージアムのアーカイブでもアマティに関わる言及は一切ありません。
唯一といってもいい公式な存在は、2022年にリニューアルされた際の広島マツダミュージアムにて「開発凍結」と紙が貼られたアマティ1000用の4リッターv12エンジンが一般に初公開されたことです。もちろんファンの界隈では大きく話題になりましたが、説明プレートには「1990年代初めに、高性能・高品質を謳う新型フラッグシップセダン用として開発された排気量4000ccのV型12気筒エンジンです」と経緯のみ記載されています。
北米有志によるアプローチでも公式に「アマティプロジェクトはデリケートな問題」として、一切語れないと回答しています。世界に華々しくやると発表しながら「できない」となったこの出来事は、言葉にできないほどプライドに深く傷がつき、触れてはいけない話題となっているのです。
コンコルド効果(※途中で計画がやめられない)にまでは至らずとも、アマティは目に見える成果がほぼなかったプロジェクトであり、現在のマツダブランドでは跡形もなく消え去ってしまいました。大きな希望と大きな期待の物語は、失敗と巨額の損失で消えてしまったのでした。
なお、アマティが実現していたら成功していたか?となると、その想像は微妙なものになっていることも事実です。当時の北米市場においてマツダが高級車部門をサポートできるリソースがあったか?となると疑問視され、日産のインフィニティですら差別化に苦戦していた状況からも「そもそも無謀だった」とされているのです。
また、当時の北米マツダ幹部はほぼ全員「マツダは十分な計画と投資をしていなかった」として、このプロジェクト自体が「愚か」「予想通りの結果だった」と回顧しています。カタログモデルになる予定だった車種もほぼ全てヒットしなかったことも、厳しい評価に繋がっているのでしょう。
なお、アマティプロジェクトを率いたディック・コリヴァー氏はマツダを退社、プロジェクトで練られたシステムやプログラム、そして7人の同僚を連れて94年に北米ホンダへ転職しています。その後、同氏はアキュラ部門の責任者に任命され、アキュラは90年代後半から00年代にかけて長期にわたる成功を収めました。
2016年、コリヴァー氏はアマティプロジェクトに携わった当時のマツダ従業員50名を集め、25周年同窓会を主催しました。彼らは密かにサルベージしていたアマティロゴが入った帽子や、金のペガサスが刺繍がされたポロシャツ、そして当時の写真などアマティ・ブランドゆかりのグッズを持ち寄ったそうです。
その際、コリヴァー氏は涙を流しながら「マツダがプログラムをキャンセルした日は、人生で最も悲しい日だった」とスピーチしたのでした。
ミアータが「アマティMX-5」になっていたら
MX-5ミアータ(NAロードスター)の成功は、開発から販売タイミングに至るまで【全ての偶然】が繋がった、奇跡のような出来事でした。もちろん準備をしていなければ成功は掴めないのですが、仮に1年早く(88年)デビューをしていたらヒットはしなかった・・・なんて分析もあります。事実、ロードスターの成功によってマツダではとてつもなく個性的な車種が何台も販売されましたが、会社を牽引するほどのヒットは初代デミオ(1996)まで待つことになります。
それでも、仮にアマティが今日まで継続していたら、ユーノスも続いていたら・・・ロードスターはどんな存在になったのから、想像に難くありません。プレミアムブランドらしくもっと豪華に、もっとパワーを、もっとマッチョに・・・そんな世界線があったかも知れないのです。そう考えると、バブル崩壊によりロードスターのコンセプトは守られたのかもしれません。抜本的に作り直すお金がなくて「熟成」に全振りしたNBロードスターは、意地悪な解釈をすると実質のマイナーチェンジですからね・・・
それにしてもバブル崩壊、外資参入、リーマンショック、東日本大震災、パンデミック、欧州情勢悪化・・・30年も経つと、大変なことは結構あるもんですが、それでも企業を存続させて改めて独自性を打ち出し、そして今の形に行き着いたロードスターを守り続けるマツダって、本当に凄い会社だと思います。アマティで見た夢は無駄ではなかったのでしょう。
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