ライトウェイトスポーツ本家「B」から「F」へ

ライトウェイトスポーツ本家「B」から「F」へ

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今回から複数回にわたって、ロードスターのライバルとなったクルマ「MGF」の特集を行います。本家ブリティッシュ・ライトウェイトスポーツがユーノスロードスターにどう立ち向かったのか、そんなストーリーです。


このサイトを読まれる方であれば、ユーノスロードスター(NAロードスター)に対してポジティブな感情を持つ方が多いと思います。デビュー当時からカッコ良くて、可愛くて、手軽に楽しめる。デビューから10年経ったあと中古車であれば、若者でも十分手が届く存在になっていました。

その存在は、60年~70年にかけて熱狂的なファンがいたにもかかわらずモデル消滅してしまったライトウェイトスポーツカー(LWS)を彷彿とさせるものでした。

しかし、その販売元はマツダ。東洋の島国がLWSの神髄を分かっているのか、エランのパクりだ!販売前はそんな揶揄もありましたが、蓋を開けてみればキュートな見た目に反して反骨精神あふれるホンモノだったことから、全世界のメーカーがひっくり返りました。

オープン2シーターにも市場があることを証明したロードスターには、水面下で動いていた各メーカーのエンスージアスト・エンジニアが声を上げるきっかけに繋がり、ついに老舗からもライトウェイトスポーツカーが復活することがアナウンスされました。1995年、ブリティッシュ・ライトウェイトスポーツカーの名門「MG」発の、あのオクタゴンバッジを備えたMGシリーズ、「MGF」が発表されたのです。

MGのスポーツカーといったら知る人ぞ知る憧れの存在。かつてMGのオーナーだったエンスーや、触ったことがなくても伝説を知るファンの間で「MGF」の復活は期待と不安が入り混じった、とてつもない盛り上がりを見せました。

そもそも「MG」ブランドとは


ライトウェイトスポーツのベンチマーク企業
「MG(エムジー)」とは、1924年に創業した「モーリス・ガレージ(Morris Garages)」の創設者、セシル・キンバー(Cecil Kimber)が、モーリス・オックスフォードをベースにしたスポーツカーを製作したことが始まりとされています。

戦前の1930年代にMGはTシリーズ(TC、TD、TF)を発表し、これが戦後のスポーツカー市場で人気を博していました。さらに、戦後(50年代~60年代)に発表したスポーツカー「MGA」「MGB」「MGミジェット」はいわゆるブリティッシュ・ライトウェイトスポーツのベンチマークとして世界的な大ヒットを飛ばします。

特に「MGB」をベースにしたシリーズは全世界で52万台以上販売され、世界で一番売れた2座の小型オープンスポーツカーとしてギネス記録に登録されています。(※2000年にMX-5(ロードスター)がその記録を更新します)

Maker Brand Gen Year Sales quantity Total
MG Midget mk1 1961- 25,681 226,427
mk2 1964- 26,601
mk3 1966- 100,246
1500 1974-80 73,899
MGA 1955- 101,081 101,081
MGB mk1 1962- 137,733 514,834
mk2 1967- 48,710
mk3 1969- 170,102
GT V8 1973- 2,591
Rubberbumper 1974- 155,698
MGC 1962- 9,002 9,002
ALL 851,344

ライトウェイトスポーツのベンチマーク「MGB」

MG MGB(G-HN型)
車格: オープン 乗車定員: 2名
全長×全幅×全高: 3850×1580×1200mm 重量: 910kg
ホイールベース: 2,310 mm トランスミッション: 4MT/3AT
ブレーキ: ディスク/ドラム タイヤ: 5.60-14
エンジン型式: BMC TYPE B 種類: 1.8L直列4気筒OHV
出力: 95ps(69kW)/5400rpm 燃費(10・15モード) -km/l
トルク: 14.7kg・m/3500rpm 燃料


1955年に登場した先代「MGA」はスポーツカーとして10万台以上生産された人気車でしたが、その基本設計は30年~40代のラダーフレームを用いたものであり、モノコックボディとして大幅な近代化改修を行ったのが「MGB」です。

1962年に発売されたMGBは、軽量ボディの持つハンドリングや、単純なメカによる維持のしやすさ、先代よりも広い室内寸法とラゲッジスペースの増加、新進気鋭のデザイン、そして何よりも安かったことからから瞬く間に人気を博しました。その結果80年までの約19年間に渡り、製造・販売されていました。


基本となる「ツアラー/ロードスター(Tourer/Roadster)」と呼ばれるグレードはオープンボディに90~95馬力の直列4気筒1.8Lエンジンを搭載した4速MTのFRです。また、ピニンファリーナデザインによる固定ハードトップを備えた2+2クーペボディの「GT」グレードも設定されました。ヒット車種らしくバリエーション展開も豊富で、直列6気筒を搭載した「MGC」、V型8気筒を搭載した「MGB GT V8」なども販売されました。

なお、MGBは当初から北米市場を意識した設計を行っており、総計52万台のうち2/3が左ハンドルモデルとして輸出されています。デビュー当時の60年代はMGBに限らずイギリス車の販売自体は好調で、ブリティッシュ・ライトウェイトスポーツがひとつのジャンルとして定着しつつありました。

ブランド消滅から復活へ


MGのクルマは時代を先取りしたスタイリッシュなデザインとアフォーダブル(手の届く)価格で提供されるスポーツカーブランドとして、現在まで多くの愛好家から支持を得ています。

一方で、60年代以降のイギリス経済は恐ろしい停滞期を迎えつつありました。厚すぎる社会保障制度(ゆりかごから墓場まで)を実施するためあらゆる産業を国有化したことで、国際競争意識や低品質製品の増加などが起きた、いわゆる「英国病」です。

実は、それまでも吸収合併を繰り返していたMGですが国有化の流れには抗えず、1968年にはブリティッシュ・レイランド(British Leyland)へ統合されます。しかし、同社の経営における一貫性の無さは英国自動車産業の停滞を招き、70年代の2度にわたるオイルショックにより追い打ちをかけられました。


この時期の北米市場におけるアフォーダブルスポーツカーはフェアレディZなどの競合がヒットを飛ばしていたなかで、MGBは排ガス規制(マスキー法)の対応によるによるエンジン出力の低下や、衝突安全基準に対応するために衝撃吸収バンパー(通称ラバーバンパー)を装備します。

この外観デザインの変更や重量増加、そして10年以上生産されていたことによるクルマ自体の陳腐化が重なり、スポーツカーとしての魅力を大幅に失った出来事とされています。さらに、安全面ではオープンカー自体が不利な状況を迎え、80年にMGBは生産終了となり、同時に「MG」はブランドを休止することになりました。

その後、イギリス国営乗用車部門はオースチン・ローバー(81年)、ローバー公社(86年)、BAe(ブリティッシュ・エアロスペース)が株主となるローバー・カーズ(88年)を経ています。90年代はホンダとの電撃的な提携解消からのBMW資本算入など辛い時期を乗り越え、塩漬けとなっていたMGブランドが復活のきっかけを模索していました。

もちろん、スポーツカーブランドのイメージは自活かさなければ勿体ないので、82年には名車ミニの後継とされていたオースチン・メトロのバッジをMGにした「MGメトロ」シリーズや、WRCのグループB車両「MGメトロ6R4」といったクルマは存在していますが、MGのバッジに相応しい後継車だったかというと「なんか違うんだよなぁ」と言われ続けていました。

MGDとMGE

80年にブランド休止となったMGですが、大ヒット作MGBに甘んじていたわけではなく、スポーツカーブランドとして後継車種の模索をしていました。MGブランドのスポーツカーは末尾にアルファベットを課せられていますが、MGC以降のクルマはコンセプトカーが幾度か発表されています。


1970 MG ADO21(MGD)
公社BMCのエンジニアリング部門ADO(Austin Drawing Office)によるプロジェクトナンバー「ADO21」は、MGBに代わるミッドシップスポーツカー「MGD」としてプロジェクトが進められていました。しかし、MGDはクレイモデル以上の段階へ進めず、トライアンフTR7を優先してキャンセルとなっています。


スーパーカー然とするウェッジシェイプのミッドシップボディはアフォーダブルスポーツカーの立ち位置とは正反対なので、ライトウェイトスポーツで名が売れたMGブランドとはそりが合わなかったのでしょう。


1985 MG EX-E(MGE)
MGブランド休止以降、MGスポーツカーの正統序列「E」を冠したスーパーカープロジェクトがフランクフルトモーターショーで提示されています。ボディサイズはNSXやF355と同クラスであり、ミッドシップにV6 250馬力を搭載するフルタイム4WDとなっています。


ただし、あくまでMGブランドの方向性をプレゼンするもので上級志向のPR効果を狙ったものとされています。なお、デザイナーは生産型MGFと同じジェリー・マクガヴァン氏で、リアセクションのデザインはMGFに引き継がれています。

Fナンバーの復活、ふたつの選択肢


1991 MG PR1/PR2/PR3(MGF検討モデル)
1989年、MGブランドを所有していたローバーに衝撃が走ります。マツダがMX-5ミアータ、つまりユーノスロードスターを発表したからです。ライトウェイトスポーツの本家であるイギリスが最も得意としており、そして捨ててしまったクルマを東洋の自動車メーカーが新しい技術で再生させてきたのです。


「素直にいって、ヨーロッパの自動車メーカーたちはマツダが本質的魅力に満ちたスポーツカーを作ったことを認めざるを得ない。それを上回るためには、それにない魅力を持たせる、新たな要素を付け加えなければならなくなった。(ニック・フェロー:MGFプロジェクトリーダー)」


この事態に、急遽ローバーは威信を守るためにローバー・スペシャル・プロジェクト(RSP)としてフェニックス(不死鳥)プログラムを発足します。そこで、新型スポーツカーの方向性を模索しました。コンセプトの段階ではFF、FR、MRと様々な側面で比較検討が重ねられました。


1993 MG RV8
新型車「MGF」開発スタートの一方で、ローバーは市場調査による要望により、もうひとつの選択肢も実行しました。それは「MG」ブランドの再生のストーリーとして、レトロでノスタルジックなアプローチです。

MG MG RV8(RA48A型)
車格: オープン 乗車定員: 2名
全長×全幅×全高: 4010×1570×1310mm 重量: 1130kg
ホイールベース: 2,330 mm トランスミッション: 5MT
ブレーキ: ディスク/ドラム タイヤ: 205/65ZR15
エンジン型式: 種類: 4L水冷V型8気筒OHV
出力: 190ps(139.7kW)/4750rpm 燃費(10・15モード) -km/l
トルク: 32.4kg・m/3200rpm 燃料 無鉛プレミアムガソリン


そこで、ヘリテージ部門が復刻していたMGBの金型や補修パーツを用いて、更にローバー製V8エンジンを搭載する復刻版を企画しました。これは「MGB誕生30周年企画」を冠し、MGブランド復活の伏線として限定生産された「MG RV8」です。

2000台の生産台数のうち、1568台(75%)はユーノスロードスターのヒットおよび、バブル景気真っ盛りの日本が購入、その後コンディションの良い中古車800台が本国に戻っているという数奇な運命をたどったクルマでした。


MG RV8のインテリアは圧巻の一言で「オープンカーとはこういうものだ!」という上質な仕立ては、英国本家のコーディネートセンスを見せつけてくれました。

一方でベース車両はライトウェイトなボディにビックトルクのエンジンを載せたものであり、直線番長でああるもののブレーキ容量が足りなくて危険、買ったその日に雨漏りするなど、人を選ぶクルマであったとされています。一部のノスタルジック・コレクターにとってはご褒美ですが、実質60年代のメカを用いたクルマであることは決定的な短所だったのです。

つまり、MGFとなるべきクルマはMGBの復刻ではなく50年代、60年代と続いた魂を90年代の技術でリファインする方向性を目指し、それを具現化する手段としてミッドシップレイアウトでいくことをローバー経営陣は決定し、MGFはMR案で開発が進むことになります。


1989 Lotus Elan(2GN)

実情としては、経営再建でパートナーを組んでいたホンダとの関係悪化により、開発リソースを数の出ないFRプラットフォームに割けなかったことや、奇しくも同時期(89年)にデビューしたブリティッシュ・ライトウェイトスポーツの雄・ロータスエラン(2代目)の駆動方式がFFだったことによる市場批判を酌んだものでしょう。

当時、(ホンダは別格としても)スポーツカーは後輪駆動という価値観が根強いなかで、現実的にはMR2のようにFFプラットフォームを前後逆にするMR案しかなかったのです。

MGFの復活は祭りだった


ここで冒頭の話に戻るのですが・・・今でこそライトウェイトスポーツカーのベンチマークとして定着しているユーノスロードスターですが、繰り返しますがデビュー当時はまだ「本家(ブリティッシュ・ライトウェイトスポーツ)を模倣したもの」という評価も少なくはありませんでした。

特にクラシックスポーツカーは不便を楽しむ風潮もあり、反面ロードスターは早々に壊れないクルマでした(※)。信じられない価値観かも知れませんが、出来が良すぎてエンスージアストの先輩達からは軽く見られていた部分があったのです。(※30年以上経った現在は経年劣化で壊れます)


1995 MG MGF

そこで80年代に終わってしまった伝説のブランド「MG」が、15年ぶりに本家として新型ライトウェイトスポーツを復活させるときたものですから、それはもうお祭り騒ぎでした。

特に、90年当時はインターネット黎明期であり、自動車のレビューといえばマスメディア(雑誌やテレビ)が主流だった時代です。その情報を提供する(当時の)自動車ジャーナリストたちは70年代にMG、ロータス、トライアンフ、オースチンといったLWS洗礼を受けていた世代。

90年代当時の雑誌を開けばMGFに対する期待と不安が入り乱れる文章に溢れていました。MGのオクタゴンエンブレムは、ユーノスの十二単(じゅうにひとえ)エンブレムに匹敵する、青春時代の証だったからです。

では、復活したMGFとはどんなクルマだったのか・・・次回に続きます。

関連情報→

打倒ロードスター「MGF」

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