MR-S① 日本初のミッドシップ「MR2(AW型)」

MR-S① 日本初のミッドシップ「MR2(AW型)」

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本トピックはトヨタのライトウェイトスポーツ「MR-S」の小特集シリーズです。なお、トヨタでは当時「MR-S」を「ライトスポーツ」としていましたが、当サイトでは「ライトウェイトスポーツ」の表現に統一しています。

打倒ロードスター、トヨタ「MR-S」


1999 TOYOTA MR-S

多様化した趣味嗜好が受け入れられるようになった現代、スポーツカーは自動車メーカーのブランドピラーとしてふたたび機能するようになりました。しかし、ほんの少し前の時代では状況が違いました。

もともと2000年代初頭に施工された環境規制により、効率をパワーに割り振っていたエンジンの継続が厳しくなり、それを採用するクルマ(主にスポーツカー)が消えていくなか、徹底的に追い打ちをかけたのが・・・2008年のリーマンショックを発端とする世界不況や、2011年3月に起きた東日本大震災でした。

モビリティテクノロジーは完全にエコ方面に傾き、娯楽の象徴で燃費の悪いスポーツカーは、身近で目につく悪の象徴になってしまったのです。

そんな状況になる少し前、トヨタ・スポーツカーの最後の希望として存在していた一台のライトウェイトスポーツカーがありました。当時、マツダ・ロードスター(NB型)のガチンコライバルとされていた、トヨタ「MR-S(ZZW型)」です。


1984 TOYOTA MR2

ここで注目したいのは、「MR-S」はトヨタの名車「MR2(AW型:1984~)」から続く系譜だったこと。事実、欧州では3代目「MR2」として提供されています。

実は、初代「MX-5(NAロードスター)」の企画は、国産車として「MR2」やホンダ「CR-X」が開拓した、北米向けセクレタリーカー市場に切り込む【名目】がありました。したがって、ライバル対決として捉えると、チャレンジするのは「MR-S」ではなくロードスター側だったのです。

今回は、その辺りのエピソードを複数回にわけて紐解いていきます。

クルマでモテる時代が到来した1980年代


1978 MAZDA RX-7

初代「MR2(AW型)」の企画は今から約40年前の、1980年代にまで遡ります。80年代以前の自動車業界は、未曽有の危機が立て続けに起こっていました。

かつて三種の神器と呼ばれた白物家電(白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫)が普及した1960年代、次の豊かさを象徴するものは「3C(カラーテレビ、クーラー、クルマ)」と呼ばれ、日本国民は自身のステータスのためにこれら求める時代になっていました。モーレツ社員・企業戦士が賛辞されていた時代です。

しかし、圧倒的な勢いで普及した自動車は交通事故が多発、その死傷者は日清戦争よりも多いことから「交通戦争」と呼ばれる社会問題に発展しました。また、1970年代になると産油国が原油価格を70割引き上げた「オイルショック」が起こりました。ガソリン末端価格が50円から100円、最大177円とぐんぐん上がっていき家計に大打撃を与えたのです。燃費の悪いクルマから出る排気ガスは環境を汚染、公害問題にも発展し、こういった状況を打破する必要がありました。

そこで、世界各国が掲げた「安全規制」や「エミッション規制/燃費目標(環境規制)」を自動車業界が一丸になって取組み、少しづつ【技術の力】で乗り越えていったのでした。そして、鬱屈した状況から抜け出し、来たるべき未来への希望が見えた1980年代に向け「新時代を予感する」象徴的なクルマが70年代後半から続々とデビューしていきました。

有名どころはロータリーエンジンで燃費規制を達成しつつ、スーパーカーのアイコンだったリトラクタブルヘッドライトを採用したマツダ「RX-7(SA型:1978~)」などが、「若者の憧れ」として頭角を現してきたのです。

当時はスマートフォンもインターネットもない時代。クルマが普及・大衆化し、ついに一人一台の「自分のクルマ」購入も夢ではなくなり・・・なんと「カッコいいクルマ」に乗っていればモテる時代だったのでした。そこで、分かりやすいスポーツカーやスペシャリティカーが続々デビューしていき、あらゆるクルマにリトラクタブルヘッドライトが採用されていきました。


1981 TOYOTA SOARER 2800GT

当時から保守的とされていたトヨタであっても、この機会を逃さないため秘密裏に「ソアラ(Z10型:1981~)」や「セリカXX(A40/50型:1978~ ※海外名スープラ)」の準備を虎視眈々と進めていたのですが・・・これらは今でいうハイパフォーマンスカー、フラグシップモデルであり、若者に手が届くとはいいづらい存在でした。

そこで当時の豊田英二社長は、製品企画室の主査を全員集めて「これからの時代、従来の発想では考えられないようなコンセプトの車両がトヨタにあってもいいのではないか、真剣に検討してみて欲しい」と指示を出しました。

この主査制度は、部長職相応の主査に全権限と全責任を持たせるる製品開発体制。豊田英二社長は「主査は製品の社長であり、社長は主査の助っ人である」と言葉を残しており、トヨタ発展の礎になったとされています。

トヨタ「MR2(AW型)」の開発背景


1973 FIAT X1/9

初代MR2の開発主査だった吉田昭夫氏には、密かに温めていた企画がありました。

同氏は70年代、エミッション対応プロジェクトを推進するためカリフォルニアへ出張をしていた経験がありました。その際居住していたのは、全世界のサブカルチャーの中心地とされたアメリカ西海岸。そこで「こういう若者たちに、将来トヨタ車を買ってもらうとしたら、どんなものだろうか・・・」と、思案していたのでした。

カリフォルニアの若者といえばサーフィンです。そんな彼らが乗っていると連想するのはキャルルック(California looker(カリフォルニア・ルッカー))のビートルあたりですが、現地の実情は全く異なりました。現地の若者が好んで駆るのは、小さくてきびきびした小回りの利くクルマが多かったのです。

特に目立ったのはイギリスのクルマ・・・MGミジェットやロータスエランなどのブリティッシュ・ライトウェイトスポーツが想定以上に目に入ったのでした。更に、そこで目立っていたのがフィアット「X1/9(1972~)」。

エンジニア視点においてもこのクルマには見所が多く、特に実用車フィアット「128」を前後逆にレイアウトして量産ミッドシップを成立させた革新的なパッケージや、ガンディーニデザインによるミニ・スーパーカーとしての愛され、若者たちは中古になった「X1/9」を楽しそうに駆っていたのでした。


1983 TOYOTA SV-3 Concept

彼女を乗せるくらいだから座席はふたつでいい。車体は小回りが利いて、オープンにできれば言うことはない。クルマを複数保有する時代に、あえて自分専用のクルマは必要だ。個性的で斬新なスタイル、高性能志向を実現するためのミッドシップ、そして何より楽しいクルマを作りたい。

帰国後、豊田社長からかけられた号令は、吉田氏が得た知見を活かす機会に繋がっていったのでした。

本音でいえば、ガチなミッドシップスポーツカーを作りたかったかもしれませんが、それで企画が通るほど会社も甘くないでしょう。そこで目を付けたのが最大のマーケットとなる北米のセクレタリーカーというジャンルです。

直訳すると「秘書のクルマ」で、秘書に象徴される働く女性が通勤に使用する「手軽に乗れてちょっとオシャレなクルマ」としてパーソナルクーペが一大市場を形成していたのです。


したがって、新開発ミッドシップカーのコンセプトはスポーツカーではなく「スポーティー・パーソナルカー」という名目にしました。ドライビングそのものをファッションのように気軽に楽しんでもらいたい。スポーツ走行などの限定された趣味にとらわれないスタイルを提案する・・・そんな名目で開発がスタートしました。

日本初のミッドシップ・ライトウェイトスポーツを作る


当時、若者向けにクルマを普及させるには、小排気量~中排気量の5ナンバーサイズ(小型車)であることが必須条件であり、結果それがレギュレーションになっていました。

そこで、クルマの企画より先行で開発されていた1600cc直列4気筒DOHCのスポーツユニット、名機「4A-G」シリーズのデビュータイミングに重なったことも功を奏しました。


1983 TOYOTA COROLLA LEVIN

同じ系譜のエンジンを積んで先に市場投入された「レビン/トレノ(AE85/86型:1983~)」は縦置きFRのパッケージ(4A-GEU)になっていましたが、当時トヨタには横置きFFエンジンが存在していなかったこともあり、MR2には横置きのユニット「4A-GELU」が積まれることが内定していました。※トヨタエンジンの型式で「G」が付くのはヤマハ発動機と共同開発のイメージがありますものが、4A-G型はトヨタの独自開発になります


1984 TOYOTA COROLLA FX

ミッドシップレイアウトを実現するために選ばれた車体は、FF2BOXの「カローラFX(E8#H型:1984年~)」。こちらはシビックやCR-XをターゲットとしたFFホットハッチで、ある意味で「GRカローラ」のご先祖様になります。そのシャシーとパワートレインを流用し、進む方向を前後逆に置き換えて、国産初の量産ミッドシップカーが実現したのでした。


1984 TOYOTA MR2

一目でミッドシップと分かる、かのカウンタックやストラトスと共通した最先端イメージのウェッジシェイプスタイル&リトラクタブルヘッドライトの採用は想定以上のファンを獲得し、2シーターとしては異例の第5回 日本カーオブザイヤー(1984-1985)を受賞しました。

販売価格はベースグレード(AW10)で127万円~、4A-Gを積むAW11は149万円〜、スーパーチャージャー仕様は165万円〜234万円。今の目で見れば安く見えますが、FRのAR85が116.5万円、AE86のトップグレードが160万円と若干割高なものでした(※当時の大卒初任給は14.5万円)ただ、発売から僅か2年2ヶ月で生産台数は92,000台を達成、特に海外では開発コンセプト通りオーナーの半数以上が女性と、幅広いユーザー層へと受け入れられるクルマとなりました。


ただ、ボンネットを低くできるウェッジシェイプを採用している割に、キャビンからリアセクションの流れが凡庸にみえるし、長いホイールベースから先の前後オーバーハングをバッサリ削っているスタイルは、若干「寸詰まり」な印象を受けます。(現在の目で見れば一周回ってレトロカッコいいですが・・・)

それはトヨタ内部でも分かっていたそうで、実際にデザイン部門から「せっかくのミッドシップカーなのにおとなしいデザインでは納得できない、背も低くしたい」と声が上がっていました。しかし、営業部門からは「幅広いユーザーに訴求したいので、とにかくおとなしいクルマにしてほしい」と要望が出されていました。


したがって、あえて意図して「デザインはおとなしく」、そして「運転しやすい」クルマに仕上げています。

「MR2」の車名は「Midship Runabout 2seater」、つまり「気軽に走れる2シーターミッドシップ」というそのままの意味。そして最後まで初代「MR2」はセクレタリーカーであるという立ち位置を崩さず、「スポーツカーではなく、あくまでもスポーティカー」であるという見解を貫いたのでした。その割には全車にパワーステアリングが設定されていないストイックな部分もあったのですが・・・

TOYOTA MR2(AW11) 1984
車格: クーペ 乗車定員: 2名
全長×全幅×全高: 3950×1665×1250mm 重量: 960kg
ホイールベース: 2,320 mm トランスミッション: 5MT/4AT
ブレーキ: ベンチレーテッドディスク/ディスク タイヤ: 185/60R14
エンジン型式: 4A-GELU 種類: 水冷直列4気筒DOHC
出力: 130ps 燃費(10・15モード) 11.6km/L
トルク: 15.2kg・m/5200rpm~ 燃料 無鉛ガソリン

MR2の目指した方向性ではなく、モアパワーの道へ


そうはいってもミッドシップはスポーツカーの理想とされるレイアウトです。したがって、市場はMR2に対してさらなる運動性能を求める声が挙がっていきました。

その声に応じたのはボディ設計を担当し、初代主査の後を継ぐ形となった有馬和俊氏。MR2にさらなるパワーと運動性能を与えるべくマイナーチェンジに取り組みました。(※名目上は「市場の声」っていいますが、マイナーチェンジは販売直後から計画するもの。パワーアップは確信犯的なものと思われます・・・)

まず検討されたのが大排気量化です。既に2000ccの「3S-G」型エンジンは市販車へ搭載されていたことから、分かりやすいスペックアップの手段だったのですが・・・現行車ではエンジンルームのスペースが足りず、無理やりエンジン本体を搭載したとしても、吸排気系の取り回しから、どうしても不可能であると判断を下しました。なお、このエンジンの採用は2代目「MR2(SW型:1989年~)」まで待つことになります。


残されたパワーアップの手段は過給機です。ターボとスーパーチャージャーの比較検討を行った結果、アクセルレスポンスや出力特性に優れるスーパーチャージャーの採用となりました。ちなみに、「4A-Gターボ」は試作までされていましたが、その後のトヨタ車いずれにも純正採用はされていない、幻の仕様とされています。

AW10/AW11 パワートレイン
1984年6月-1986年8月(前期型)
4A-GELU型 1.6L 直4 130ps
3A-LU型 1.5L 直4 83ps
1986年8月-1989年10月(後期型)
4A-GZE型 1.6L 直4 スーパーチャージャー 145ps
4A-GELU型 1.6L 直4 120ps
3A-LU型 1.5L 直4 83ps


スーパーチャージャー仕様はデビューから2年後の1986年からのマイナーチェンジ、通称「後期型」で採用されました。また、企画段階で存在したオープン仕様(タルガトップ)は実現できませんでしたが、代わりにTバールーフ仕様が設定されたことも話題となりました。

結局「MR2」はあくまでスポーティカーという位置づけで、元気なエンジンのパワーを使い切るライトウェイトスポーツを志していたはずですが、結果的には販売台数の7割がスーパーチャージャー仕様となり、これがその後の方向性を決定づけることになったのでした。なお、このパワーアップによりトラクションが活きるジムカーナでは相当な成績を残す一方で、速度域が上がったことによる足周りのピーキーさが際立ち、その課題も次世代に託されました。


1983 TOYOTA SV-3 Concept

ちなみに市販化に向けて、コスト等の絡みからどうしても実現できなかったのがデジタルメーターでした。今の目で見ると、レトロカッコよくて逆にウルトラクールですよね。(※ちなみに同時期のカローラFXではオプション選択が可能でした)

MR2(AW型)1984-1989

総生産台数 約160,000台
国内販売台数  40,826台

ロードスターはMR2に対するチャレンジャーだった


1984 MAZDA MR CONCEPT

開発背景、コンセプト、そして狙いたい市場・・・ロードスター開発のルーツとなる1984年のオフライン55コンペでは、参加エンジニア内ではFR案が内定していたとはいえ、同じセクレタリーカー市場を想定してMR2を意識したMRレイアウト案が存在していました。

さらにプロジェクト最終段階のユーザークリニック(市場調査)ではMX-5のプロトタイプと共に比較対象としてMR2も用意されていました。

つまり、あくまでロードスターはライトウェイトスポーツとして先に成功していた「MR2」をマーケティングにおけるベンチマークとして、セクレタリーカーという「名目」を持ってその市場へ挑んだチャレンジャーだったのです。

面白いのは、カリフォルニアに根付いていたブリティッシュ・ライトウェイトスポーツが企画ベースになっているところは同じでも、結果は違ったことです。全く新しいミッドシップカーを作ったトヨタに対し、旧来のFR車を現代の技術で復活させたマツダ。どちらもエンスージアスティックな意図をオブラートに包んでいた企画であったことは間違いなく、クルマが大好きなエンジニアの執念のようなものを感じます。


1989 TOYOTA MR2

若者が楽しんでくれるクルマを作りたい。そんな思いをもとに、同じエンジンで駆動方式が異なるFR「レビン/トレノ」、FF「カローラFX」、MR「MR2」とラインナップを揃えられたのは、流石トヨタでした。

そして、初代「ユーノスロードスター」デビューと同時期の1989年、5年の販売期間を持って「MR2」は早くも2代目にフルモデルチェンジすることになるのでした。

続く→

MR-S② ミッドシップ継続のために「MR2(SW型)」

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