プレミアムブランド「ユーノス(EUNOS)」の興亡

プレミアムブランド「ユーノス(EUNOS)」の興亡

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マツダのプレミアム戦略、ユーノス


ユーノス誕生の背景

1980年代後半から1990年代初頭における日本の好景気(いわゆるバブル経済期)において、マツダは国内市場における販売力強化と顧客層拡大を目指し、野心的な多チャンネル戦略を展開しました。これは既存のマツダディーラーに加え、新たに「ユーノス」「アンフィニ(当初マツダオート店、1991年に改称)」「オートザム」「オートラマ(フォード車販売)」という、合計5つの販売チャンネルを設立、展開するものでした。いわゆる5チャンネル体制とされるものです。

これは各チャンネル(チャネル)に独自のブランドイメージとターゲット顧客を設定し、それぞれに特化したラインナップ(車種)を提供、多様化する市場ニーズに対応して販売シェアを飛躍的に拡大させる企画でした。


しかし、この戦略は各チャンネルが独自のブランド構築、ディーラー網の整備、そして専用車種の開発を必要としたため、莫大な初期投資と継続的な運営コストを伴うことになります。さらにブランド間で車種のキャラクターが重複したり、かねてからのマツダファンであろうターゲット顧客も競合するリスクがありました。

このような背景から、この戦略は構造的な複雑さと高い投資要件・・・つまり「好景気の持続」を前提とした、脆弱な側面を持っていたのでした。バブル経済の勢いに伴う「経済成長と旺盛な消費意欲」に支えられている間は機能しうるものの、ひとたび状況(景気)が悪化すれば、高い固定費と市場縮小によって経営を圧迫する可能性があったのです。

まさか、そんなことが起こるわけがない・・・当時の日本全体が持っていた「見通しの甘さ」がどんな結果になったのかは、現在を生きる皆様の知る通りですが、それは最後に語ります。


ユーノス(EUNOS)のブランドコンセプト

「ユーノス(EUNOS)」は、マツダの5チャンネル体制において「プレミアムおよびスペシャリティカー」の専門ブランドとして、1989年に設立しました。従来のマツダが持つ大衆的なイメージから一線を画して、洗練性や独自性を求める顧客層に向けた、より高級で個性豊かなイメージを構築するコンセプトを掲げていました。

これは、同時期に北米においてトヨタが高級車市場をターゲットとして展開した「レクサス」に近しい戦略ですが、ユーノスが特徴的だったのは、あくまで国内を主戦場に据えていたことです。なお、マツダにおいて北米の高級車市場には「アマティ」の構想がこの時期にスタートしています。

関連情報→https://mx-5nb.com/2024/03/18/amati_mazda/


「ユーノス(EUNOS)」という名称は、ラテン語で「喜び」を意味する”Eu”と、英語で「集まり」を意味する”Numbers”を組み合わせた造語であり、「喜びのコレクション」を表現しています。そのコンセプトに準じて「Project EUNOS」と採番を行い、そのクルマのテーマを訴求するプロモーション活動が行われました。

エンブレムは日本の伝統衣装である十二単(じゅうにひとえ)の襟部分をモチーフに、日本文化のアイデンティティを示すデザインとなっています。

ユーノスの店舗は、従来のマツダディーラーにおけるイメージを払拭すべく「ブティック」のような洗練された店舗デザインを目指しました。建物の外観や内装、さらにはスタッフの制服に至るまで高級感を演出し、欧州車のようなテイストを持つラインナップを揃え、さらにフランスのシトロエン車も販売することで、独自の世界観を顧客に提供しました。

したがって、車名も「ユーノスXX」と欧州車のような「数字」「分類名」で表現しており、ユーノスロードスターは「ユーノスのオープンカー」、ユーノスカーゴは「ユーノスの貨物車」となります。少し残念なのは、このコンセプトを全てのラインナップで貫けなかったことで、コスモ、プレッソなどペットネームで展開された車種も混ざっていました。

ユーノスブランドの拡大戦略

シトロエンの取扱

当時、シトロエンの正規輸入販売は西武自動車販売(西武自販)が手掛けていましたが、ユーノスの参入によりシトロエンは日本国内にふたつの正規販売網を持つことになり、両者は競合関係に入りました。

この複雑な状況を調整するため、1990年にシトロエン本社(仏)、西武自販、マツダの3社出資による日本法人「シトロエン・ジャポン」(第一次)が設立されました。しかし、これは販売権の統合ではなく、あくまで業務調整を目的としたもので、ユーノスと西武自販はそれぞれ独自にシトロエン車を販売し続けました。

結果、同じシトロエンのモデルであっても、ユーノスと西武自販で価格設定が異なるケースが発生(ユーノス価格/西武価格)、その価格差は仕様や装備の違いに起因することが多いのですが、顧客目線ではどちらのディーラーで購入すべきか、サービス体制に違いはあるのかなどの疑問に繋がり、シトロエンブランド自体の浸透に非効率が生じました。


異業種参入の急速展開

ユーノスブランドの展開で特徴的だったのは、マツダは従来のマツダ系ディーラー以外の「異業種」を積極的に勧誘し、ディーラー運営の参画を促したことです。これはフォード車を販売する「オートラマ」で実績のあった仕組みを踏襲したもので、ディーラーの全国網を迅速に構築する戦略のひとつになっていました。

異業種提携には資本、不動産(店舗用地)、顧客基盤、そして自動車業界とは異なる経営ノウハウの導入といったメリットが期待できました。さらに、デビューと同時に社会現象といえる人気を博した「ユーノスロードスター」の存在が、ディーラー参入を魅力的に映す一助となりました。

参入企業は運輸、小売、商社、製造(生活用品、化学、食品、輸送機器)、エネルギー、建設資材など、自動車販売とは直接的な関連性の薄い企業も含まれ、ピーク時には148社が参加したとされています。これはマツダが広範囲で募集を行い、そして当時の経済状況下において異業種からの関心が高かったことを物語っています。

ディーラー名(判明分) 親会社・母体企業(判明分) 主要業種
ユーノスロード(JR北海道) JR北海道 運輸(鉄道)
(不明) JR九州 運輸(鉄道)
JR西日本 運輸(鉄道)
神姫バス 運輸(バス)
三越ワールドモーターズ(三越) 小売(百貨店)
イズミヤ 小売(スーパーマーケット)
ニチイ→マイカル(ビブレ21) 小売(スーパーマーケット)
サミットモータース 住友商事 総合商社
(不明) 三井鉱山 鉱業・資源
ユーノスロータリー オートバックスセブン 自動車用品・サービス
(不明) 象印マホービン 製造(生活用品)
住友ベークライト 製造(化学)
オークラ輸送機 製造(輸送機器)
空研工業 製造(空調設備)
亀田製菓 製造(食品)
ニヤクコーポレーション 運輸・エネルギー
ミツウロコ エネルギー・商社
三愛石油 エネルギー
一光 エネルギー・小売
マツダ小田原 マルセン 建設資材商社
(不明) 鶴田石材 石材
八坂鉱山 鉱業
カゴメ物流サービス(カゴメ) 食品・物流
中埜酢店(ミツカン) 食品(醸造)
ユーノスエーツーゼット 宝船 不明(小売・食品関連か)
(不明) 昭産開発(昭和産業) 不動産・食品
古河ヤクルト販売 飲料販売
いずみ総合サービス(住友重機械工業) サービス(重工業系)
ユーノスフレックス フレックス自動車販売 自動車販売(中古車)
(不明) 矢野新商事 不明
ユーノスホリエ 堀江商店 エネルギー・商社
ユーノスファミール (不明) 不明(自動車関連か)
ユーノス三昌 三昌自動車グループ 自動車販売・整備
(不明) 名鉄整備(名鉄グループ) 運輸・サービス
三洋クリエイティブサービス(三洋電機) サービス(電機系)


ブランド維持のためのリスク

一方、このユーノスにおけるブランド展開はリスクも伴っていました。

自動車ディーラーとして経験を持たないパートナーに運営を委ねるのは、店舗運営の質、ブランドイメージの管理、顧客サービスに課題がありました。目指していたプレミアムブランド体験は、パートナー企業、店舗ごとに統一感があったとはいえない状況だったのです。

さらに、シトロエンは欧州の老舗ブランドである一方でユーノスは誕生したばかり。その関係性が顧客にとって、ユーノスはマツダのブランドなのか輸入車ディーラーなのか混乱を招きました。当然、母体の違うクルマのサービス体制を維持することは、ディーラー運営の負担にも繋がりました。

こういった複雑な関係性は、ユーノスの戦略が内包していた非効率性や矛盾を象徴していものといえるでしょう。最終的にマツダはユーノスの撤退と共にシトロエン事業から撤退したことが、この運営モデルにおける持続可能性の限界を示していたのです。

ユーノスの多彩なラインナップ


ユーノスブランドは1989年から1996年と、その短い活動期間中にスポーツカーからセダン、クーペ、さらには商用車に至るまで、多様なラインナップを市場投入しました。一方、マツダ・ボンゴをベースとする「ユーノスカーゴ」のような商用モデルもカタログ入りしており、ブランドイメージの一貫性を損なう部分もありました。


ユーノスロードスター
Project EUNOS 1
人とクルマはどこまでひとつになれるか。

1989年9月発売。軽量な2シーターオープンスポーツカー。「人馬一体」という開発思想を体現した世界的なヒットモデル。手頃な価格設定(約170万円台)も人気を後押し、ユーノスブランドの象徴的存在であり最大の成功作となりました。ユーノスブランド消滅後も名称を継続し、1997年12月まで販売されました。


ユーノス100
Project EUNOS 4
スポーツセダンの新しいカタチを創りたい。

1989年11月発売。マツダ・ファミリアアスティナをベースとした5ドアハッチバック。スポーティなエントリーモデルとして位置づけられましたが、ベース車との差別化が乏しい点(バッジエンジニアリング)や割高な価格設定から販売は伸び悩み1994年に生産終了、後継車種の「ランティス」に道を譲りました。


ユーノス300
Project EUNOS 3
「美意識あるスポーツ」をセダンで問いたい。

1989年11月発売。「マツダ・ペルソナ」をベースとした、センターピラーレスのスタイリッシュな4ドアハードトップ。内装にレザー張りのモデル設定するなど高級感を演出し、1992年まで販売されました。


ユーノスカーゴ
Project EUNOS 5
クルマの愉しさ、そのキャパシティをひろげたい。

1990年3月発売。「マツダ・ボンゴ」をベースとした商用バンおよびワゴン。1993年頃まで販売。「プレミアム」「スペシャリティ」を標榜するユーノスブランドにおいては異質な存在であり、ラインナップの多様化を図る一方で、ブランドイメージの希薄化を招きました。


ユーノスコスモ
Project EUNOS 6
最上の「私」であるために、クーペの頂点を極めたい。

1990年4月発売。大型の高級パーソナルクーペ。市販車として世界で唯一の3ローター・ロータリーエンジン(20B型)を搭載したことで知られます(2ローターの13B型も設定)。当時の先進技術が多数投入された、ユーノスブランド、ひいてはマツダの技術的フラッグシップモデルでした。1996年に生産終了しています。


ユーノスプレッソ
Project EUNOS 9
スポーツの新しいフィールドをつくりたい。

1991年6月発売。小型の3ドアクーペ。「オートザム・AZ-3」とは姉妹車の関係にありました。世界最小(当時)の1.8LV型6気筒エンジン(K8型)を搭載したことが最大の特徴です。若者向けのスペシャルティクーペ市場を狙いましたが、マツダグループ内での競合やクーペ自体の需要減退から、1996年4月に販売終了しています。


ユーノス500
Project EUNOS 10
時を超えて輝くセダンでありたい。

1992年2月発売。流麗なデザインと高品質な塗装(高機能ハイレフコート)で評価されたミドルクラスセダン。「マツダ・クロノス」とプラットフォームを共有しつつ、独自のスタイリングが与えられました。ユーノスが目指した欧州プレミアムセダンの方向性を具現化したモデルでしたが、1996年に販売終了しています。ただし欧州市場では「Xedos6」として1999年まで販売が継続されました。


マツダ ランティス
ランティス・アピール

1993年9月発売。4ドアクーペとセダンの2種類があり、もともとは別車種として開発されていました。「ユーノス100」の統合後継車種という扱いであり、継続モデルとしてユーノスでも取り扱われています。デザインやハンドリングとともに安全性能にも力を入れており、1996年の衝突安全基準適合第1号となりました。


ユーノス800
10年基準、ユーノス800。

1993年10月発売。「ユーノス500」の上位に位置づけられた高級セダン。世界で初めてミラーサイクル方式のV型6気筒エンジン(KJ-ZEM型2.3L)を搭載したことで注目されました。海外では「Xedos9」として販売されました。ユーノスブランド廃止後も「マツダ・ミレーニア」と改称し、フェイスリフトを行いながらマツダブランドで2003年まで生産が継続されました。なお、ミレーニアの名称はユーノス800後期における限定仕様(ユーノス800 ミレーニア)から継がれています。

関連情報→https://mx-5nb.com/2019/11/08/eunos-fx/

シトロエン・ラインナップ


ユーノスはシトロエンの正規販売拠点としての機能も担っていました。この提携は、ユーノスチャンネルが目指した「欧州テイスト」というブランドイメージを補強し、ラインナップに多様性をもたらす意図がありました。


シトロエン BX
Project EUNOS 2
日本のクルマ社会をよりヒューマンなものにしたい。

ユーノスブランドのスタート時点からラインナップされていた、中型ハッチバックおよびステーションワゴン。シトロエン独自のハイドロニューマチック・サスペンションによる乗り心地の良さが特徴でした。当時の広告では「We selected」というコピーも使われ、ユーノスが厳選したモデルであることをアピールしていました。


シトロエン AX
Project EUNOS 7
日本のタウン・カーを愉快にしたい。

シトロエンのエントリーモデルにあたるコンパクトカー。軽量なボディと経済性が特徴でした。


シトロエン XM
Project EUNOS 8
日本の高級車にオリジナリティを問いたい。

シトロエンの当時のフラッグシップモデルにあたる大型セダンおよびステーションワゴン。BX同様、ハイドロニューマチック・サスペンション(ハイドラクティブ)を搭載し、未来的なスタイリングも特徴でした。


シトロエン ZX
世界中のラリーファンを熱くさせたシトロエン、ZX新登場

BXとAXの中間に位置するCセグメントのハッチバックおよびステーションワゴン。モータースポーツでも活躍した一方で、量産車は実用性と快適性を両立したモデルでした。


シトロエン エグザンティア
BXの後継モデルにあたる中型セダンおよびステーションワゴン。洗練されたデザインと、さらに進化したハイドロニューマチック・サスペンション(ハイドラクティブII)を備えていました。

PROJECT
EUNOS
MODEL Theme
1 ユーノスロードスター 人とクルマは どこまでひとつになれるか。
2 シトロエン BX 日本のクルマ社会をよりヒューマンなものにしたい。
3 ユーノス300 「美意識あるスポーツ」をセダンで問いたい。
4 ユーノス100 スポーツセダンの新しいカタチを創りたい。
5 ユーノスカーゴ クルマの愉しさ、そのキャパシティをひろげたい。
6 ユーノスコスモ 最上の「私」であるために、クーペの頂点を極めたい。
7 シトロエンAX 日本のタウン・カーを愉快にしたい。
8 シトロエンXM 日本の高級車にオリジナリティを問いたい。
9 ユーノスプレッソ スポーツの新しいフィールドをつくりたい。
10 ユーノス500 追い求めたのは10年色あせぬ価値。

ユーノスの評価と実績


ユーノスのラインナップは、ロードスターやコスモのような独自性の高いモデルがある一方で、既存のマツダ車をベースとした他チャンネルと競合するモデルも見受けられました。これはプレミアムブランドとは真逆の、ある種「数合わせ」な展開に見えてしまい、消費者の混乱やマツダ社内のリソースを分散させる一因になったといえるでしょう。

また、それらの販売実績はモデルによって明暗が分かれました。特に「ユーノスロードスター」は発売当初から高い注目を集め、バックオーダーを抱えるほどの人気を得て、世界的な成功を収めました。

一方、苦戦を強いられたモデルとして「ユーノス100」は、ベースとなったファミリアアスティナとの差別化が不十分なうえで価格設定による販売不振を招きました。「ユーノスプレッソ」はオートザムAZ-3(姉妹車)とエンジン仕様(V6/直4)で差別化を図っていたはずが途中で仕様が統合され、キャラクターとしての独自性がなくなりました。

先進性をアピールする意欲作となった、3ローターエンジンの「ユーノスコスモ」やミラーサイクルエンジンの「ユーノス800」はプレミアムイメージに貢献した一方で、バブル崩壊後の経済状況下ではクルマに信頼性(壊れない)が求められたこともあり、普及や収益性に大きく結びつくことはありませんでした。


結果、ユーノスチャンネルの販売実績はロードスターという大ヒットモデルを擁しながらも当初の期待には届かず、ラインナップ全体においての販売力不足がユーノスの経営を圧迫していきました。

この事実は、単一のヒット商品だけでは販売チャンネル全体の成功を保証できないことや、ブランド戦略においては価格設定、他モデルとの差別化、市場環境などの整合性が重要であることを示唆しているでしょう。

ユーノスロードスターの成功は、あくまでこのクルマ独自のコンセプトと価格設定によるものであり、ユーノスというブランド自体が成功をもたらしたわけではなかったのです。

ユーノスの終焉


1990年代初頭に始まったバブル経済の崩壊は、自動車市場だけでなく日本経済全体に深刻な影響を与え、消費者の購買意欲を大きく減退させることとなりました。

とりわけ「旺盛な消費」を前提としていたユーノスのような新興プレミアムブランドは存立基盤自体が揺らぐ結果を迎えつつありました。象徴的だったのは、それまで花形だったユーノスコスモのような高価格帯のニッチモデルに対する需要が、恐ろしい勢いで冷え込んでいったことでした。

もちろん、5チャンネル展開そのものもマツダの経営を圧迫していきました。多すぎる車種ラインナップと販売チャンネルは開発・生産・販売の各段階で非効率を生み、結果として深刻な経営危機に直面、抜本的な経営の見直しを迫られました。しかし、これはバブル崩壊が引き金であったとはいえ、その根底には「5チャンネル販売」という過度に拡張的で複雑な事業構造そのものの脆弱性が露呈したといえるでしょう。

結果論ではありますが、より簡素で効率的な経営体制であれば逆風を乗り越えられた可能性があったかも知れません。ユーノスの終焉は不運なタイミングの問題ではなく、戦略的な判断ミスが重なったものであると類推されます。


ユーノスブランドの解体

断崖絶壁に立ったマツダは米国フォードの資本を取り入れて経営再建を進めていきました。当然ながら販売チャンネルの整理、統合も行われ、ユーノスは1996年にアンフィニへ統合(一部はオートラマへ)、これによりユーノスブランド独自の販売網は消滅しました。ユーノスの名の付く車両もこの統合プロセスを経て段階的に廃止、1996年から1998年頃にかけてユーノスを冠した車種は生産終了となりました。

一方、ブランドを代表する存在だったユーノスロードスターは2代目(NB型)へのモデルチェンジを許され「マツダロードスター」としてマツダブランドに統合、その命脈を保ちました。また、高級セダンであったユーノス800も「マツダミレーニア」と改名し2003年まで生産が継続されました(のちに「カペラ」とともに「アテンザ」へキャラクターが統合されている)。

これらの車種の存続はユーノスブランドの枠を超えた価値や、市場で一定の評価があったことを示しているでしょう。逆に、廃止されたモデルは、規模縮小を行ったマツダにおいて収益性やブランド戦略の位置づけが見いだせなかったと考えられます。

ユーノスの遺産


ユーノスブランドの試み、そして5チャンネル体制の失敗は、マツダへ重要な教訓を残したとされています。バブル経済という特殊な時代背景があったとはいえ、過剰な拡大路線やブランド・アイデンティティの希薄化がもたらすリスクを明確に示した事例になったのです。

その後のマツダは「Zoom-Zoom」に代表される焦点の定まったブランドメッセージの発信や、SKYACTIV技術と魂動デザインを核にしたグローバルブランド戦略を行い、大いなる復活を果たしています。ブランドの一貫性、経営資源の集中、そして市場環境の変化に対する耐性をマツダは痛みを伴って学んだのでしょう。


また、ブランドとしては短命に終わったユーノスですが、その傘下にはエンスージアストから評価される数々のモデルが残されました。

初代「ユーノスロードスター」は単なるヒット商品にとどまらずライトウェイトスポーツカーの概念を再定義し、世界中で愛されるアイコンとなりました。また「ユーノスコスモ」は、唯一無二の3ローター・ロータリーエンジンという技術的遺産を残しました。その他「ユーノスプレッソ」の搭載した世界最小V6エンジン、「ユーノス500」の美しいデザインなど、各モデルがそれぞれに技術的・デザイン的な挑戦を行っていたことも事実です。

ブランドに対する熱狂的なファンももちろん存在しており、ある意味で特異な時代の伝説や遺産はなおも語り継がれています。ユーノスブランドは消えてしまいましたが、そこから生まれた名車たちのDNAは、確かな足跡を残しているといえるでしょう。

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