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1989年に誕生し、現在に至るまで愛され続けているライトウェイトスポーツカー(LWS)であるユーノスロードスター(NA型/海外名:MX-5 Miata)。このクルマは90年代のマツダを彩った「ときめきのデザイン(Inspired Sensation)」を体現した存在でした。
そこで今回は、この偉大なスポーツカーがまだ「名もなきスケッチ」だった時代へと時計の針を戻します。舞台は太陽がさんさんと降り注ぐ、アメリカ・カリフォルニア州。マツダの北米デザインスタジオ(MANA)において、トム俣野(俣野努)氏や林浩一氏らの熱きデザイナーたちが、いかにしてロードスターの原点となるコンセプトデザインを形作っていったのか。
どのようなクルマも表舞台に出ることのない歴史がありますが、幸いなことにロードスターには当時の証言や記録が残されています。アドバンスデザインを担当した林浩一氏の回顧録や、トム俣野氏のアーカイブから、泥臭くもロマンあふれる開発ストーリーを紐解いていきましょう。
ライトウェイトスポーツカーへの郷愁

全てのはじまりは1976年にまで遡ります。当時、アメリカの自動車誌『モータートレンド』のジャーナリストであり、日本への留学経験から日本語も堪能であったボブ・ホール氏は、マツダのトップエンジニアであり「ロータリーの父」として知られる山本健一氏(当時の常務、のちの社長・会長)へ取材を行う機会を得ました。
ホール氏と山本氏の間で「マツダが将来どのようなクルマを作るべきか」というディスカッションが交わされるなか、ホール氏は取材の合間に熱っぽく語りかけました。

New LWS P508 Sketch
1970年代から80年代初頭にかけて、世界の自動車市場から英国由来のライトウェイトスポーツカーは完全に姿を消しつつありました。国際的な安全基準、排ガス規制、そして英国自動車産業の衰退が原因で、ごくわずかなモデルを除いて新車販売は絶望的になっていたのです。実際、多くの自動車メーカーが「屋根が開く小型スポーツカーの時代は終わった」と結論づけていました。

1967 Triumph Spitfire
しかし、第二次世界大戦の終戦を契機に、安くて手ごろな欧州製のスポーツカーが楽しいこと知ったアメリカ人の心には、LWSが特別な感情が焼き付けられていました。LWSは手軽に誰でも楽しめるプレジャーカーであり、かつセレタリーカー(オフィスで働く女性のためのクルマ)として重宝されており、潜在需要は根強く存在していました。実際、一年を通して気候が良いカリフォルニアでは、クラシックとなりつつあった多数のライトウェイトスポーツカーが大切に維持され、生き残っていたのです。
ライトウェイトスポーツカー(LWS)とは、既存のコンポーネント(マツダでいえばFRファミリアのシャシーなど)を流用した「安価で軽量小型のオープンカー」を指します。つまり、ホール氏はこの時点でマツダが持つリソースを活かした企画を訴求していたのです。この言葉は「感性を重視するクルマ作り(感性エンジニアリング)」を掲げていた山本健一氏の心に、小さな火種として残りました。
その後、1981年にボブ・ホール氏は北米マツダの企画部門(プランニング部門)へ入社を果たします。偶然アメリカへ出張してきた山本氏から「以前話したロードスターの話はどうなった?」と問われると、「どこに持っていっても話が動かない」とホール氏は嘆きます。
そこで山本氏は、カリフォルニアへ新設されたばかりの北米デザインスタジオ(MANA)へ、アイディアの研究をおこなうゴーサインを出しました。そして「じゃあ、お前がそれをやってみろ」とホール氏の背中を押したのです。ただし、「就業時間外にやること」と極めて厳しい条件付きでした。
カリフォルニア発、ペーパープランの蓄積

ホール氏は、さっそく様々な人材に声がけをしていきました。マーク・ジョーダン氏やトム俣野氏が描いた「軽量スポーツ」のイラストが有名ですが、この段階でMANAはプロポーションや必要なスペックについてアイディアを貪欲に蓄積していきました。
なお、当時のマツダのアメリカにおけるシェアはわずか1.9%。ロータリースポーツのRX-7の存在が少し光るだけで、「マツダ」というメーカーすら知らない人が大半でした。この圧倒的な逆境のなかでユーザーの心を捉えるには、文章や言葉ではなく「一目見てコンセプトがストレートに伝わるクルマ」が必要でした。

この北米スタジオは、広島のPPR(プロダクトプランニングリサーチ)グループが母体だったこともあり、のちのマツダデザイン本部長を務める福田成徳氏や林浩一氏が合流しました。彼らは山本氏が提唱する「感性エンジニアリング」を具現化すべく、愛車と人生を共にする「壮大なストーリー(トキメキの世界/Inspired Sensation)」を構築し、スポーツカー開発の哲学的な土台を固めていきました。

MANAのプランニングが出した回答は「小さくてシンプル、手軽なオープン2シーター。良い意味でLWSのトラディショナル(伝統的な)キャラクターを持つ、1990年代生まれのネオ・クラシック」でした。単なる50〜60年代のブリティッシュLWSの復活ではなく、それらの持つ味や雰囲気を現代風にアレンジし、90年代のクルマとしての「サムシング・ニュー」を盛り込む。ハイテク化が進み無機的になりがちな現代のクルマに「人間味」「暖かみ」といったヒューマンタッチな表現を加えることこそが、今後のマツダが展開すべきデザインテーマに繋がると考えたのです。
コンペプログラム「オフライン55」FF/MRプラン

1983年後半、マツダでは新世代のクルマを模索する「オフライン55」というプロジェクトが立ち上がります。
これは「確率55%で商品化を検討する(市販される)」という社内コンペであり、軽量スポーツカーは「MPV」「キャロル」に続く新たなテーマとして設定されました(のちに「AZ-1」もこのプログラムからスタートします)。ここで、軽量スポーツカー企画において、日本のデザインチーム群とカリフォルニアのMANAチームが熾烈なコンペを行うことになりました。第1ラウンド(1984年4月)はペーパープラン、第2ラウンドはクレイモデルでの対決です。
日本デザインチームの提案は、佐藤洋一氏の手掛けたFF(フロントエンジン、前輪駆動)レイアウトと、鈴木秀樹氏の手掛けたMR(ミッドシップエンジン、後輪駆動)レイアウトでした。(※ちなみに佐藤氏はのちにRX-7(FD)、RX-8、2代目アテンザを、鈴木氏は初代アクセラのチーフデザイナーを務めることになる実力者たちです)
【FFレイアウト案】

FFレイアウト案は、既存コンポーネントを流用しやすいコスト面での有利さがあり、当時スマッシュヒットしていた「ホンダCR-X」のようなFFスポーツクーペ(フロントエンジン・前輪駆動)を成立させる手法を用いました。

Offline 55 LWS FF proposal
全体的に、華やかなデザインというよりは質実剛健な作りであり、特徴的なテールまわりのリアビューをひとつの「カタマリ」に捉える手法は、後のRX-7(FD)等でも活かされています。ドアに埋められたフリップタイプのドアハンドルも、当時は未来的なアイコンでした。

しかし、新世代のマツダらしいか?と問われると「普通」であったことから、このコンペを勝ち抜くことができませんでした。ただし、デザインソース自体はさまざまに引き継がれ「薄いヘッドライト」はランティスセダンやファミリアへ、プロポーション自体はより伸びやかな姿にリファインされたMX-6へ繋がることが分かります。
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【MRレイアウト案】

MRレイアウト案は、当時の「フィアットX1/9」や「トヨタMR2」、さらには「ポンティアック・フィエロ」などがヒットした背景によるものです。それまでMR(ミッドシップエンジン・後輪駆動)の量産モデルは不可能とされていたなか、FFのシャシーを前後逆さまにして実現する手法を想定していました。

Offline 55 LWS MR proposal
腰が高くスパッと切り詰めるコーダトロンカデザインはまさにミッドシップならではのアイコニックなプロポーションであり、1970年に発表されたロータリーミッドシップ・コンセプトカー「RX500」を彷彿とさせました。リトラクタブルヘッドライトのスラントノーズからルーフに向かって一直線で繋がるワンモーションフォルムもスポーツカーを連想する塊感があります。ミッドシップによる騒音、振動、ハーシュネス(NVH)要件を満たすことに苦労が見えていたものの、会場では総じてポジティブな反応でした。

このMR案もコンペには落ちてしまいましたが、マツダ・ミッドシップデザインの系譜は途絶えることはなく「MX-4コンセプト」を経て89年の「AZ550コンセプト」、1992年の「AZ-1」へ引き継がれていきました。なお、AZ-1の陣頭指揮をおこなったのは、NAロードスターと同じ平井敏彦氏でした。
コンペプログラム「オフライン55」FRプラン「DUO101」

広島チームに対するカリフォルニア(MANA)チームは、古き良き英国由来ロードスターへの郷愁とリスペクトを込め、クラシカルなFR(フロントエンジン、後輪駆動)レイアウトを提案しました。このFR案が林浩一氏(のちのNBロードスターチーフデザイナー)の担当したコードネーム「DUO101(デュオ101)」です。2シーターだからDUO、101はカリフォルニアの海岸線を走る国道、パシフィックコーストハイウェイの101号線からつけたネーミングとなります。
マツダを支えたカーデザイナー。北米スタジオで初代(NA)ロードスターの先行デザインを開発。その後、2代目(NB)ロードスターのチーフデザイナーを務め、初のSUVであるトリビュートの開発時はプロダクションデザインスタジオ部長として関与。のちにデザイン本部副本部長(当時の実質的なデザイン部門トップ級)に就任し、「Zoom-Zoom」期のアスレティックデザインによるブランド再構築を牽引した。定年退職を迎えたのち、惜しまれつつ他界された。
注目すべきは、FR案の初期デザインや1/1イラストの段階では、NAロードスターの象徴である「リトラクタブルヘッドライト」が描かれていなかったことです。

俣野氏らは、クルマの「顔」にハッピースマイルフェイス(微笑む顔)のキャラクターを持たせるのが狙いでした。そのためには、のちに方向指示器(ウインカー)が配置される「目」の部分に、固定式のヘッドランプを組み込み「ヘッドランプとエアインテークだけのシンプルなフロント」表情を理想としていたのです。
しかし当時の技術的限界では、法規上の光量を確保できるヘッドランプを実現することができませんでした。既存の大きなヘッドランプを無理に収めようとすると、シボレー・カマロのようにライトを奥へ深く引っ込ませる無骨な造形になってしまうのです。

リトラクタブル方式は古いテクノロジーという認識が一般的になりつつあったため迷いましたが、彼らは無骨なデザインを嫌い苦渋の決断として、元の位置には「目」のなごりとして方向指示器(ウインカー)を残しました。また、ヘッドランプは法規クリアのために「ポップアップ(リトラクタブル)式」に変更しました。

したがって、最初からリトラクタブルを狙ったわけではなく、技術的限界と美しいデザインを守るためのギリギリの妥協案としての採用でした。しかし、結果的にこれがNAロードスターの愛らしいアイコンへと昇華しました。なお、フロントマスクにはっきりとした「固定式の目」を与えようとしたデザイナー達の熱い思いは、2代目NB型に継がれていきます。

1984年5月から7月にかけ、第2ラウンドとなる1/1クレイモデルの製作が始まります。MANAの敷地には小さなデザインスタジオが完成し、フルスケールのクレイモデルが製作できるようになりました。っモデル製作の担当デザイナーは、本社から出向中の八木正雄氏があたり、トム俣野氏、マーク・ジョーダン氏のサポートを受けて作成に入りました。

日本からはベテラン・クレイモデラーの梶山茂氏と森武昭氏が出張し、さらにNASAのロケット部品を作りながらストレッチリムジンまで自作してしまうアメリカ人のビル・マッキンタイヤー氏も雇われました。最初は言葉や文化の壁から遠慮があったものの、互いの力量を認め合うと各自の能力が発揮され、わずか2ヵ月余りで今にも走り出しそうな真紅のLWSが完成しました。

Offline 55 LWS FR proposal 「DUO101」
デザイン要素(赤いダイノックフィルムのボディやアルミホイールなど)を統一して比較検討されたこのコンペにおいて、DUO101はペーパープランの段階からディスカッションされてきた「今の時代におけるライトウェイトスポーツとは何か?」を見事に表現していました。
実際、DUO101はトライアンフ・スピットファイヤーをベンチマークとして研究を重ねて作られました。この段階からソフトトップとハードトップのいずれかが選択できることを想定しており、ドアハンドル、テールランプ、グリル、エンジンレイアウト、センターコンソールなど、各ディティールに多くの歴代LWSへのリスペクトが込められていました。
ボンネットのふたつのパワーバルジは搭乗者の位置に合わせた抑揚であり、ボディに芯を通すキャラクターライン(モール)や、サイドシル下端を黒く塗ってボディを薄く見せる手法など、後のNAロードスターに直結するデザインエッセンスがすでに込められていました。また、オープンカーらしくインテリアも魅せるため、ダッシュボードは鮮烈な赤に染められていました。

DUO101デザインを手がけた林氏のコメントには、現在のロードスターに続くデザイン哲学が表れています。
また、LWSは性格上むやみにマイナーチェンジを行うことは好まれない。息の長いロングライフを目指した商品になることが求められる。従って、デザイン的には時代に左右されないオリジナリティの強い「主張のあるスポーツカーデザイン」が求められる。」(林浩一氏)

「DUO101」は旧来のLWSを知らない人から見れば新鮮でありつつ、古くからこの種のクルマに親しんできた人々にはノスタルジー(郷愁)を与えるものであり、このコンペで見事に商品化のベースとして選択される栄誉を勝ち取りました。
なお、当時のエンジニア陣の視点は少し違ったようで、のちにロードスター主査を務める貴島孝雄氏は、「あれ(コンペの他のクルマ)は当て馬で、最初から作る気がなかった(笑)。オープン2シーターを作ることはもう分かっていた」と回顧しています。一方、当時新人だった山口宗則氏(ロードスターシリーズのプロジェクトマネージャ)ーはミッドシップ案に投票をしたとか・・・

しかし、当時は現場が「FRが楽しい」と伝えても、20年以上マーケットがゼロであり、世界中の自動車メーカーが作っていないFRのオープンカーを作って儲かるのかと、経営陣は誰も信用しませんでした。そのため、このコンペをおこない「やはりFR案が良かったです」と支持が一番多かったデータを持っていく、経営陣を説得するための戦略(確信犯的な採用)でもありました。
プリ・プロトタイプ「V705」

FR LWS Pre-prototype V705
社内コンペを勝ち抜いたFR案は、とりあえず「P729オープンスポーツ」というプロジェクトコードを得たものの、全く新しいFR専用プラットフォームを必要とするオープンカーの量産化は、経営陣を説得するにはハードルが高すぎました。
多チャンネル構想を控えたマツダとして、いつ立ち消えになるか分からないプロジェクトに人員を割くわけにはいかなかったのです。そして、コンペから1年が経過してもFR案は「商品化検討段階」のままで、MANAのメンバーは焦り始めていました。

そこで動いたのがデザインチームとは別部門の、マツダに新設されたばかりの技術研究所のスタッフたちでした。
各方面で口裏を合わせながら「プラスチックボディ(樹脂ボディ)開発プロジェクト」という名目を使い、走行可能なプロトタイプを極秘裏に制作する大胆な行動に出たのです。デザインは引き続きMANAが行い、メカニズムの設計と制作は自動車各メーカーの開発・試作を引き受けていたイギリスの開発委託会社であるIAD(International Automotive Design)社(※デロリアンなども手掛けた企業)が行いました。

こうして1985年8月にイギリスで完成したのが、プリ・プロトタイプ(自走プロトタイプ)「V705」です。
V705はDUO101をデザインソースにしつつも走行可能な状態にするため、ボディラインは現実的なものにリファインされて車体寸法も一回り大きくなっていました。リデザインはカリフォルニアチーム(トム俣野氏、マーク・ジョーダン氏、ウー・ハン・チン氏ら)が手掛け、デュオにあったボンネットの「ふたこぶ」バルジも引き継がれました。また、トノカバーにもふたつのバルジを設け、ボディ前後で統一感のある流麗なフォルムが実現しました。
この鮮烈で愛らしい、真っ赤なFRP(強化プラスチック)製のボディカラーのアクセントから、デザインチームの間では親しみを込めてV705を「りんごちゃん」と呼びました。なお、写真後方にはLWSのベンチマークとなった「トヨタMR2」と「フィアットX1/9」が置かれています。

パワートレインは既存のコンポーネントを流用するLWSのコンセプト通り、F4A型ファミリアバンを流用したFR駆動に、サスペンションやステアリングまわりはSA22C型サバンナRX-7のものを組み合わせてバックボーンフレームを採用。まさに旧来のエランのようなメカを彷彿とする仕様でした。垂直に切りかかれたバルクヘッドからも分かるように、フレームにボディを載せる構造です。

また、リトラクタブルヘッドライトの採用、逆アリゲーター式のボンネット、MGBの排気音をエミュレートするなど、様々な観点からスポーツカーのロマンを演出しました。特徴的なのは、前方を跳ね上げて幌を格納する「ハードタイプのトノカバー」です。量産型のロードスターではコストをかけられず断念しましたが、のちのNCロードスターRHT(リトラクタブルハードトップ)でこの機構は実現されることになります。

インテリアはクレイモデルをそのまま型抜きして樹脂で再現、全てカーペット加工されてました。オーディオはラジオのみ、中央で縦に並ぶエアコン吹き出し口、グローブボックスやシガレットソケットも装備、そして情熱的な赤のツーシーターシートが備えられました。また、パワーウインドウは「ライトウェイトスポーツにそんなものは必要ない」と、手動のウインドウレギュレーターになっています。

(おそらく)現在マツダで保存されているV705のオドメーターは約300kmちょっと、スピードメーターは130マイル(約209km/h)まで刻まれていました。
りんごちゃん、サンタバーバラの冒険

1985年9月、イギリスで完成した「りんごちゃん(V705)」は、カリフォルニアの太陽の下でどう見えるかを検証すべく、アメリカへ輸送されました。そこで「せっかくの機会なので、どこかで走らせてみよう」と、カリフォルニアの美しい保養地、サンタバーバラ周辺の公道でテストドライブを決行します。

ツアーコンダクターは土地勘のあるMNAOのエンジニア、ノーマン・ギャレット氏。企画推進をおこなった技術研究所の松井雅隆所長もステアリングを握り、後ろからはプレゼン用のビデオ撮影班が記録を行いました。そして、このサンタバーバラのテストランで巻き起こったのは、異常な熱狂でした。

町中でクルマをトレーラーから下ろすや否やたちまち大勢の人垣ができ、クルマは追いかけて来る熱心なファンやバイクに追っかけ回される始末。「どこのメーカーのクルマか」「いつ発売されるのか」「値段はいくらか」「今すぐにでも売って欲しい」と、見る人見る人から無数に声を掛けられ、質問攻めに遭いました。

極めつけは、興奮したあるドライバーから「俺のベンツの鍵を渡すから、お前のそのクルマの鍵をくれ!」と迫られる一幕までありました。

さらに後日、マツダのクルマだと分からないように偽装していたにも関わらず、「写真を撮った。これを自動車雑誌社にスクープとして売り込む」と脅しの電話までかかってきました。これに対しスタッフは、「そんな事をするとメーカー内でこのプロジェクト自体が潰れてしまう。せっかくの素晴らしいオープンカーも日の目を見ない結果になる。その写真は、むしろ市販された10年後に歴史的資料として売り込んだ方が高く売れるぞ」と切り返し、電話の主も引き下がったそうです。

この「サンタバーバラの冒険」1日で撮影されたビデオテープはマツダ本社に伝わり、商品企画(PP&R)のプレゼンテーションが決定打になりました。過去の市場データでは「売れない」とされていたLWSが、クルマが持つ圧倒的な引力とポテンシャルを、アメリカの一般市民の生の興奮という形で証明したのです。量産に懐疑的だった技術研究所の松井専務(所長)らもこの体験と映像を目の当たりにして、「これは絶対に作るべきだ」と確信したのでした。

いつ消滅してもおかしくなかったプロジェクトは、このビデオによって正式な量産開発へ動き出したのでした。
当たり前を覆す苦悩、アドバンスモデル「MX729」

サンタバーバラの反響をもとに、大幅に遅延していた「P729」プロジェクトは役員会に上程され、「量産も考慮する」として1986年1月18日に企画が再始動します。プロジェクトの陣頭指揮には、ロードスターの初代主査となる平井敏彦氏が任命されました。
平井氏の最初の仕事は、IAD社との契約解消という厳しいものでした。送られてきた設計図面を見て「量産車開発が可能な設計図とは考えられない」と判断し、早急に業務委託を解消しないとを取り返しがつかないと気づいたのです。1986年3月、タフな交渉の末に違約金を最小限にとどめて契約を解消。ゼロリセットされたP729プロジェクトは「J58」という新たな開発コードを獲得し、社内リソースでの開発に移行しました。

Advanced Design MX729 1st
一方、V705が話題になっていた同じ時期に、林浩一氏らカリフォルニアのデザインチームは、DUO101のブラッシュアップ案となる第2のアドバンスモデル「MX729」の制作に悪戦苦闘していました。
2台目のスタイリングモデル製作の予算が計上され、新パッケージ条件での検証がMANAで始まりましたが、このなかには「50mmホイールベースを伸ばす」など、LWSというには苦しい諸条件が提示され、さらには量産スケジュールへ移行をスムーズにするため「エンジニアリングハードポイント(設計要件)を厳守せよ」との制限が課された、デザイナー的には厳しい再スタートとなりました。
集められたのは、日本からモデラーが2人(ベテランの田中直樹氏、新人の古田氏)、イギリス人のマーティン・マクリース氏、ブライアン・イノセント氏、アメリカ人のビル・マッキンタイヤー氏、メキシコ人のルイス・ロモ氏という多国籍の混成チームです。

Advanced Design MX729 2nd
MX729は、FRファミリアベースによるV705で見られた高い車高とベルトラインの高さを調整することから始まりました。V705はLWSとして地を這うようなイメージを出し切れていなかったので、もっとエキサイティングでコンパクト、低く、そしてハンドルを操りたくなるエモーショナルな表現を狙いました。

林氏は、資料写真で見た「路上でマッチを擦りパイプを吸う」古典LWSドライバーの小粋な仕草が脳裏から離れず、トライアンフTR3、MGA、モーガン、スーパー7などのような、ドアを軽量小型化してスパルタンな雰囲気、なんならドアを開けなくても乗り降りできるような、サイドをえぐったベルトライン形状にするデザインを当初は検討していました。しかし、あまりにもブリティッシュ色が強くなりすぎたため途中で断念するなど、試行錯誤を繰り返します。

また、「初代RX-7にみられる、キュートで小さくとも存在感のあるイメージが欲しい」という福田本部長からの命題、つまり今後のマツダデザインを示すアイデンティティも求められました。リトラクタブルヘッドライトを閉じたフェイスに「表情」を付けるためフォグランプで主張し、左右テールランプをユニットとしてまとめ、レトロかつモダンなデザインへ仕上げていきっました。
しかし、「エキサイティングでコンパクト、低く、走り出しそうな感じ」という要件は満足したものの、存在感、キャラクター、そして新しいマツダのアイデンティティを示す「何か(明快なデザインテーマ)」が足りず、ブレイクスルーには至っていなかったと林氏は回顧しています。
「光と影」の発見、J58アドバンスモデル

IADの開発委託解消も終えた1986年3月の終わり、平井主査はカリフォルニアのMANAにやってきました。比較競合車種となるLWS一気乗りや現地メンバーとのディスカッションを通じて、正確なイメージターゲットの読み合わせが行われました。MANAのメンバーは現地のニーズをやっと理解してもらえ、何年にもわたる「胸のつかえ」が降りたと安堵しました。
一方、量産の仮承認を得ていた「J58」にはデザイン前提条件が事細かく提示されていました。ベルトラインの高さ、エンジンと外板(ボンネット)、バンパーのクリアランスなどがミリ以下の精度で提示され、さらに「納期」も設定されました。特にホイールベースは常に議論の的となり、MX729よりは短く提示されたとはいえ、それでも理想より30mmくらいは長いものでした。
しかし、デザインチームは「いざとなれば確信犯で(クレイ上で)短く作れば良い」と判断、議論を早々に打ち切り・・・結果的には法規形状を守った状態でモデルは制作されました。

Advance Design MX729 3rd,now renamed J58
3台目のフルスケールモデルを作るにあたり、1/5モデルによる検討の結果、1台目の「ネオクラシック的フィーリング」に加え、2台目の「トラディショナルな雰囲気」も組み合わせ、反映する事を決めます。今回は日本人モデラーのサポートが無い代わりに、イギリス人のトニー・アシュプール氏が加わり、イギリス人3人、アメリカ人、メキシコ人という布陣で、更にデザイナーのウーハン・チン氏がディテールの処理やアルミホイールの造形をサポートしました。
造形は原点に立ち返り、デザイン要素を少なくしたシンプルな造形に徹します。しかし、林氏はそれでも何かが不足している気がしていました。
ボディサイドにウェッジしたキャラクターライン(ハイライト)を通すことで、走り出すスピード感、躍動感を表現しましたが、ハイライトを綺麗に通すためにはフロントフェンダーの面を50mm位膨らませる必要がある。スケジュールの大幅な遅れを懸念して林氏が躊躇していると、「黙って1日欲しい」とイギリス人モデラーが申し出ます。そして夜遅くには、見事に一本の繋がったハイライトが表現され、豊かなボディ断面を表現することが出来ました。
この出来事を境に、今まで意識をしたことの無い「形」が見え始めました。フェラーリやポルシェのように丸い断面をしているのに、キッチリとメリハリのある形をしている。なぜなのか・・・週末ごとにカリフォルニアの自動車ミーティングに通い、何本ものフィルムを使って写真を撮りまくっていた林氏だからこそ、気づいたのです。
それは、同じクルマなのに時間や光によって見え方がまるで違うこと。その答えは「光と影(リフレクション)」によるものでした。

特に私の大好きな、夏場のカリフォルニアの夕日を意識した。ブルーの空が美しく鮮やかなピンク色に変化していくのである。余談だが、海外メーカーのレンダリングスケッチの中にピンクの光やハイライトが表現されていることがあるが、ここに住まなければ未だにその理由は謎であったと思う。
(林浩一氏)
これまでの造形はスケッチを描いて立体を感覚的に想像して図面化、その図面から作ったクレイモデル上でラインや面を動かして形の補正をかけるだけでした。その観点での線は、均一的な曲率であれば良し、面はへこみが無ければ良い、という2次元的な造形の域に留まっていたのです。
しかしカリフォルニアではクレイモデルに「ダイノックフィルム」という艶のある銀やグレーのフィルムを全面に貼り込みます。その状態でクレイモデルを屋外に置くと、太陽光の変化と共に、形が無限に表情を変えていきました。時間と共に変化していくクルマの表情はもちろん、建物や自然とクルマの距離が稼げるアメリカでは、豊かな景色がクリーンなボディに写りこみ、表情がダイナミックに変化していきました。

冷たい鉄板へ光と影、リフレクション(反射)を融合させることで大自然と同化する。まさに、ボディに人間味や暖かさが吹き込まれた瞬間でした。
そこで、パワフルなイメージを狙って付けていたボンネットのバルジ(隆起)はあえて削ぎ落とし、ボンネット全体の表面に豊かな抑揚を付けました。すると、面の映り込みがダイナミックに表情を得て、エモーショナルな雰囲気が表現されました。血の通う人間に訴えかけ、感動させる事の出来るクルマ。小さくとも存在感を持ち、味のあるスタイリング。これがのちに続く、「ときめきのデザイン」が具現化した瞬間でした。

しかし、この美しいデザインを量産化の土俵に乗せるためには、本社エンジニアとの綿密なやり取りも不可欠でした。3台目のモデルはデザイン優先ではなく「プリプロダクションデザイン(量産直前)」段階にあるからです。「デザインは放っておいたら自由なことばかりやる」というのが平井主査の口癖でもあり、エンジニアにお伺いを立てなくては、クレイモデルの線一本も動かすことはできませんでした。
当時は試作モデルを三次元計測値ではなく「断面図」を本社へ送って、フィージビリティ・スタディ(生産可能性の検証活動)を行っていました。そこで大活躍したのがプロッター(自動製図機)です。
本社へ進捗状況を知らせるため、モデルの最新断面をプロッターで作図後、夜中に日本へFAX、本社回答を翌朝受け取り、それに基づく修正をクレイ上で行うという、気の遠くなるような繰り返しが続けられました。この悪戦苦闘は、「デザインは自由気ままに仕事をしている」と言わせたくない反骨精神と、「アメリカで先行デザイン開発した物が、日本の生産ラインで量産化できること」を実証したかった、そんな思いから行われました。
また、当時のMANAは修理工場の一角を改造したガレージのような場所で、塗装ブースなどありませんでした。木枠を作り、ホームセンターで購入したビニールシートを貼り付け、換気扇を置いた即席の簡易塗装ブースでは、下地塗装がクレイにうまくのらず、乾いた塗料がペラペラと剥げてしまう大事件もありました。仕上がったクレイ面まで修正を余儀なくされる大変な事態となり、モデラー全員で寝る時間を完全に返上して、面の執念の修正、再塗装、ペーパー掛けを行いました。
こうして1986年に完成したのが3台目の最終アドバンスモデル(3rd Concept)です。リトラクタブルヘッドライトによる無表情を避け「ハッピースマイル」を示唆するフロントグリルと、「目」としてのウインカーを配置。カリフォルニアの青い空の下で、滑らかな曲線美を持つそのスポーツカーは、ついに誰の真似でもない圧倒的なオリジナリティを獲得したのです。
太平洋を渡るバトンと永遠の「ときめき」

カリフォルニアの風と太陽、そして北米デザイナーチームの泥臭い議論のなかで完成した最終アドバンスモデルは、無事に広島本社へとシッピング(船積み)されました。3台目の完成と前後して日本に帰任し、デザイン本部長の職に就いていた福田成徳氏に向け、林浩一氏は現地カリフォルニアからこんな書き出しのFAXを送っています。
トム俣野氏、林浩一氏、そして国籍を超えたモデラーたちがカリフォルニアのガレージスタジオで情熱を注いだ「DUO101」「りんごちゃん(V705)」、そして「MX729」。彼らが夢見た哲学は単なる懐古主義ではなく、人間とクルマが響き合う未来へ向けた「ときめき」の創造でした。
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