35周年トークショー(俣野さん×貴島さん)in軽井沢

35周年トークショー(俣野さん×貴島さん)in軽井沢

この記事を読むのに必要な時間は約35分です。


2024年5月26日(日)に開催された「軽井沢ミーティング2024」のトークショー第一部において、貴島元主査とNAロードスターのオリジナルデザインに関われたトム俣野さん(俣野努氏)が登壇されました。

俣野さんといえば、北米マツダのデザインスタジオにてマツダデザインを指揮されていたひとり。アメリカ発の企画だったロードスターにおいて、海外目線の話はとても貴重であり、約40分にわたるトークショーは刺激的なものでした。そこで今回は、解説を挟みながらその内容を紹介します。
※話の流れを掴みやすいように、前後の文脈(話言葉)は再構成、意訳をしています。

貴島元主査&初代NAロードスターデザイナー トム俣野氏トークショー
35周年のロードスター振り返り、エピソードや思い出を語る

<登壇者のご紹介>

俣野努(またのつとむ:トム俣野)さん
カーデザイナーとしてゼネラルモーターズ、 そのグループのオーストラリア・ホールデン、BMW3シリーズのデザインに関わる。1983年から マツダノースアメリカオペレーション(MANA/MRA)のデザイン部門に入り、ロードスターを始めとした様々なマツダ車のデザインに関わる。2002年にマツダを退職、現在はアメリカのアカデミーオブアートユニバーシティで教鞭を取っている。ビデオゲーム「グランツーリスモ7」ではカーデザイナーの立場として様々な名車の解説を行っている。

貴島孝雄(きじまたかお)さん
NAロードスター開発時からシャシーを中心に関わり、NB8(1800cc)より主査となる。その後もNB、NCの主査としてロードスターに関わり続けていた。ボンゴやファミリア(BD)などのヒット車から787B、ユーノスコスモ、AZ-1、歴代RX-7などのマツダスポーツカー開発を手掛け、RX-7(FD)やRX-8はロードスターと同時に主査を務めた。現在は山口東京理科大学の名誉教授として工学部機械工学科に在籍している。

※本文は敬称を省略しています

ミアータ企画前夜


俣野
ご存知かと思いますけど、当時ボブ・ホールという元モータートレンド(雑誌)のジャーナリストがいたんです。彼が取材で日本に来た時に、少し日本語ができるから山本会長(※)とよく喋っていたらしくて、その時にしょっちゅう「マツダはセブン(RX-7)の下にもう一台、ライトウェイトスポーツを作るべきだ」と示唆していたんです。

その後、彼は北米マツダのプランニングに入社したんだけど、 たまたま会長が出張で(アメリカへ)来た時に「あの話はどうなった?」って聞かれたらしい。するとボブは「どこに持っていっても話が動かない」って訴えるから、会長は「じゃ、お前がそれをやってみろ」っていってきた。

ただし、その仕事をしていいのは就業時間外ってことで、残業をしていたんだけど・・・仕事が終わった後に自分達で色々なことを試していたのが80年代初期だったと思います。

※山本会長:山本健一氏(1922-2017)
元旧海軍出身の技術者将校で、戦後東洋工業(現・マツダ)に入社、開発リーダーとして世界で初めてロータリーエンジンの実用化に成功したエンジニア。のちに同社代表取締役社長、最高顧問などを務めた。

僕は70年にアメリカ留学をしたんですけど、自動車ショーへ行ったら、もう半年以上前の誰も読まないような日本の自動車雑誌をずっと読んでいる金髪がいたんですよ。それからが彼との仲になるんですけれど、そんな縁もあった彼がマツダでロードスターをやることになったらしいんです。

当時、会長は今のマツダに継がれる「感性エンジニアリング(※)」を発表されていて、数字や性能を追うのではなく、そこに到達するまでフィーリング、気持ち良さを作り込むのが「マツダのクルマ作り」であると明言していました。で、各部門の部長さんたちにお前らはどう思う?って問いかけていました。

※感性エンジニアリング(感性工学)
人間の感性といった主観的で論理的に説明しにくい反応を、科学的手法によって価値を発見し、活用することを目的とした学問。理系と文系の融合した、人の心や体の反応をものづくりに活かす学問ともいえる。
参考:https://mx-5nb.com/2019/11/08/jinba-ittai1/

その時、アメリカでは福田(※)さんと私のふたりで作っていたものがあったんだけど、「お前らも出してみろ」っていわれて提出したものが会長の目に止まりました。その時の要件に合わせてデザインしたものが「Zoom-Zoom」とか「トキメキの世界」ってデザイン用語に繋がっています。心を繋ぐようなクルマにしたいということで、デザインもそういう風にしていきました。

山本会長は、日本の広島から世界を眺めて次世代のアイデアを考えるよりも、(北米市場など)現地の人間を集めた場所から提案をした方がいいと発案し、海外拠点となるMRA(米)やMRE(欧)といったデザインセンターができました。


その時に、デザインリーダーができる人材を探すことになって、ボブともう一人、マーク・ジョーダンっていう若いデザイナーもいたんですけど、 色々考えた結果アメリカでは俣野がいいって推薦をしてくれることになりました。しかし、会長の条件はアメリカ市場は青い目で、アメリカの匂いを嗅いで提案をしてこいといってました。

そこで、俣野が日本人のままでは駄目だから、会長に提案をするときは日本語をたどたどしくしろとか、日本人には見えないから、条件を少し緩めてくれなんていっていたらしいです。面接ではカツラをして青い目のコンタクト入れなきゃ、なんていってたけどいざ面接してくれたのが福田さんだったから流石に嘘は付けなくて(笑)、彼と腹を割ってお話しができる関係となって今日に至っています。

※福田さん:福田成徳氏
元マツダ、デザイン本部長。カリフォルニアの駐在中、合理的なコンパクトカーやトラックに埋め尽くされたハイウェイを見て、理屈抜きで気持ちをワクワクさせるクルマが必要だと考え「ときめきのデザイン」を提案。シンプルで飽きのこないデザインとしながら、見た瞬間に心を奪われるような豊かな表情を与える立体造型を徹底的に磨いた。NBロードスタークーペ(NB7)がマツダ時代最後に手掛けたクルマとなる。

広島から見たアメリカマツダ


貴島
1983年、RX-7の次期モデルを作るコンセプトトリップのためアメリカに行ったんです。そこでボブ・ホールに廊下でばったり会って、私はスポーツカー担当で出張しているから感度があると思ったのでしょう。「貴島さん、こんなクルマ作りましょうよ!」っていってきました。

X508というFRのセダンをオープンカーにした画を描いていて「オープンカーを作りたい」という話で、ただし私はセブンの仕事でいたので話半分で聞いて「いいですね」って生返事をして帰ったんです。

結果的にはそれがスタートだったのですが、誰も話を聞いてくれないのはよくわかります。私も今はこういう立場にありますけれど、その時は「え?」って感じだった。もちろんロードスターが生まれる前ですからね。

で、その時に俣野さんもいたけれど、当時の我々(広島)からすればアメリカはR&D(研究開発施設)の出先というか、広島の田舎とはスタジオも全部毛色が違っていた。そういうものを全部仕切ったのは俣野さんで、とにかくひと皮剥くというか、日本のデザイナーとは違った目線を持っていました。

アーティストに近い分野でないといいものできないと私は思っているんですけど、アメリカは凄く洗練された場所でものづくりをやる仕組みができていた。出張したらもうモノが全然違うし、広島へ帰ると余計それを感じました。アメリカの仕事は「いいものができそうだな」と思わせる雰囲気が揃っていました。

俣野さんの経歴もBMWからマツダに来てくれたけど、優秀なデザイナーはまた他社へ転職できる人材です。そして、その度に日本では考えられないくらい給料も上がっていきます。「アメリカには俺よりも高い給料を払ってるやつがいるな」なんてマツダの役員がいましたが、役員より高い給料をもらっていたのが彼なんです。35年前の話だけど、サラリーでもアメリカの基準だった。そういったことがあるから、こういうクルマが出来たんだろうなと、今しみじみ思いますね。

やはり、世界と戦うためにはそういう人材を集めなければいけないってことで、(俣野さんは)デザイナーでありつつもマネージメントがきちんとできる人で、全てあか抜けてるというかね。

ミアータ、トキメキの世界


俣野
僕はアメリカの所長をやらせてもらったんです。 で、どうしてこんな立場になれたのかと思ったらレイオフが始まって・・・で、僕がその首切り役をやらされました。なるほど、それで僕ここまで上げてもらったんだって。だけど、アメリカでの仕事のひとつとして覚悟しました。

それとは別の話なんですけど・・・ 皆さん、ロードスターを買って、今まで通っていた通勤路や通学路よりも「面白い道」を通うようになりましたか?例えば10分、15分と余分に時間がかかっても、わざわざそっちを回るように走るイメージです。

それから、わざわざトンネルのある道を選んで、窓を開けて音を聞く人はおられますか?また、ショーウインドウとかで、鏡で自分が映るところを横にして走った人もおられますか?それを最初の時に書き込んだんです。

貴島
今おっしゃったことは「20年後にこのクルマはこうあって欲しい」と、全部ストーリーが描かれている(※)。ほとんどその通りになっているんですけれど、最後にひとつだけだけできてないことがあるので、ちょっと説明してください(笑)。

(※)トキメキの世界(要約)
ミアータ(ロードスター)の開発では、購入から20~30年後までクルマが愛される物語(ストーリー)が構築されました

ハイウェイでとあるマツダ車に追い越された。なぜか、そのクルマのテールが気になり、雑誌やコマーシャルで気にしていたら、それはミアータというらしい。

すると、色々な場所で目にするようになったので興味が深まり、実物を確かめるためディーラーに向かった。小さな扉を開け席に座るとウズウズしてきて、すぐに試乗を申し込んだ。キーを捻ってエンジンがかかった瞬間、気持ちはどんどん高揚していく。アクセルはビンビンに反応してくれるし、いざコーナーでハンドルを切ったらイメージ通りにクルマが曲がった。走るほどにこのクルマが気に入ってしまい、ついに購入を決めてしまった!

納車日はすぐに家族や友人をドライブに誘い、とにかく走りまくった。その晩、新車のウキウキした気分も少し落ち着いてきたけれど、就寝する前にまたガレージへ行き、来たばかりの愛車へ「おやすみ」を告げた。

通勤や通学では家を早めに出て遠回りしたり、帰りには普段通らない面白い道を探した。週末に遠出をすると、いつもと異なる景色に合わせてクルマの表情も違って見えた。光の当たり方によって「面の表情」が変わることに気づいたのだ。

・・・やがて何年もの月日が過ぎ、いよいよミアータを手放す時がやってきた。2シーターオープンでは家族持ちに都合が悪くなった。結婚して子どもを授かったから、普通のクルマが必要になったのだ。

しかし、手放した後も心の中にずっとミアータの思い出は残っていた。月日が過ぎて、子どもに手がかからなくなったら、かつて自分が乗っていたミアータをまた手に入れよう。少々傷んでいても、レストアをすれば何とかなるだろう。


俣野
ビレッジ、つまりミアータが大好きな人で集まった村が作りたいんです。

サーキットは最初は田舎に作られるけれど、年が経つと周りに住民が増えて街になる。するとサーキットは「音がうるさい」って邪魔者扱いされてしまいます。だから、最初からサーキットの周りに家を集めた村を作りたいんです。そこで「音は一切気にしない」って条件を理解した人だけが住めるようにする。

居住許可は昔ロードスター乗っていたとか、今乗っているとか、メカをやっていたとか、修理工場をやっていたとか、歯医者でもいいんですけれど、色々な能力のある人集めて、皆がクルマで繋がる仲間の村にするんです。

で、サーキットは自分の裏庭なんで当然走れるわけです。走って、夕方になってみて「貴島さん2秒負けた!」とかいって次の日また頑張るなんて、そういうの作りたかった。

アメリカのクラブでこの話をしたら、半年ぐらい経ってから電話かかってきて「今10万ドルあればコーナーに名前もあげるからやらないか」って提案も貰ったんだけど、アリゾナやカリフォルニアみたいな暖かいところなら良かったんですけど、彼がいってきたのはウィスコンシンって北の方で半年は雪で埋まってしまう。それはコンセプトが違うのでやめました。

でもね、年に1回F1レベルの大きなレースをやったら、自分の裏庭にスタンドを作っておけば一生暮らせるんですよ。それでリタイア後に暮らせるような村をやりたかったんだけど、それだけはまだできていませんね(笑)。

だから、このクルマをただの数字合わせて作っていくのではなくて、こういう気持ちが伝わるクルマを作りたかった。あの当時、70~80年代になると、世界中の大きい会社はみな経営陣が最終決断を下す、いわゆる会議で決めるクルマばかりになっていきました。ロータスエランのコーリン・チャップマン、ミニを作ったアレック・イシゴニスのような、自分の思いでストレートに出てきたクルマがなくなっていった時代でした。

そこでロードスターでやりたかったのは、やりたい人が集まって、そのままストレートに完成させるクルマにしたかった。幸いなことに商品本部は「売れない」ということで一切手を付けてきませんでした。下手に触って売れなかったら、あの会長から当然文句は行くのわかっていたので、みんな逃げちゃった(笑)。

おかげで何にも邪魔されずに、それこそ開発の思いがそのまま、平井さん(※)の「人馬一体」もそのまま通った。運が良かったといえばその通りだった。

(※)平井さん:平井敏彦氏(1935-2023)
山口県生まれ、1961年東洋工業(現マツダ)入社。一貫して開発部門で車の設計を行うが、マツダの経営難により1978年マツダオート石川へ出向、現場でセールス経験を積む。1980年広島へ帰任、車両設計リーダーをした経験から1986年商品企画部開発推進本部に移動、初代ロードスター主査になる。2020年、自動車殿堂者に選出。2023年逝去。
参考リンク:https://mx-5nb.com/2020/11/09/first-chief-examiner/

ライトウェイトスポーツならではの仕掛け


俣野
発表当時ロードスターは信頼性が凄く高く、軽くて頑丈なんで、やはり平井さんがトラックをやってたノウハウ(※)が入っているのだろうと想像していたわけです。で、30何年経って初めて貴島さんに真実をお聴きしました。

貴島
マツダにはトラック基準というのがあります。トラックはプロが使うから壊れてはいけないし、2トン積みで上限が2トンではビジネスにならず、そこは4トンまで壊れないマージンを持たせておくんです。ただ、それを明言すると過積載を奨励するってなるので秘密だったけれど、お客さんのために強くしてやるんです。それと同じ基準でロードスターを使った。

で、海外に行くと「貴島さん、この子は持ちすぎる」っていわれてしまう・・・すいません(笑)。そういったことから強度や信頼性については、皆さんがびっくりするぐらいあります。だから未だに皆さんがNAに乗れているでしょう?こんなクルマは中々ないと思います。

※トラック部門
当時、マツダの商用車部門が歴代スポーツカー開発を行っていた。
参考リンク:https://mx-5nb.com/2023/10/16/nb25th_mzm/#outline__3

俣野
それでね、イギリス人がクルマ好きなのはご存じだと思うんですけど・・・ライトウェイトスポーツのコンセプトはイギリス由来のものなんですね(※)。イギリス人の旦那はクルマを弄りたいけれど奥さんに言い訳をしなきゃいけない。そこで金曜の夜にわざとオイルを床に垂らして、「ほら、オイルが漏っているから整備しなきゃ」っていって、土日で遊ぶのがクルマ好きの生活だった。

で、平井さんや優秀なエンジニアの前では申し訳ないんだけれど、思ってもいない時や、買った日から計算して1ヶ月に2回ぐらい、金曜日だけオイル漏らすようなことをコンピューターで仕込めないかって頼んだ。床にさっと垂らせば、もうイギリス人は泣いて喜ぶからって(笑)。

アメリカでも買って1年ぐらいすると「きしみ音」が出るようにする。みな嫌だと文句をいうけれど、実際はそれも1つの楽しみなんです。日本車は故障も何もないってとこが大事だったけど、アメリカバージョンは1年くらい経ったら「きしみ」が出るように、ネジの規格を変えられないでしょうか・・・なんて話をしていた(笑)。

貴島
平井さんも「天才とか、完璧では面白くないだろう。 少しぐらい抜けているやつの方がいい」なんてことをしきりにいってました。だからロードスターって割り切りがあるでしょう。今はタバコを吸わない時代ですけど、灰皿なんてトラックのものですよ。それもデザインも変えずにそのまま使っている。そんなことは関係ない。彼は人馬一体で楽しく走るためには灰皿なんてどうでもいいから、「そこらの持ってこい」ってなってトラックのものを持ってきた。

俣野
そういえば、実は会議で「このクルマは禁煙車にしよう」と提案したんです。 あの頃は誰もがヘビースモーカーでみな机の上に灰皿置いてタバコ吸いながら仕事をしていたので、それを提案したら「お前が1番吸ってんじゃないか!」って怒られた。でも、オープンエアで新鮮な空気を楽しむクルマに灰皿つくのはおかしいでしょ!?

で、最終的にはアメリカでカップホルダーが流行ったおかげで、灰皿のスペースはカップホルダーに差し替えられるようになったんですね。(※)


貴島
もう、割り切りは非常に大事なことなんですよ。例えばアルミボンネットのクルマなんて、当時200万円を切るクルマでそんなのはなかった。だから役員なんかの判断基準は「200万円でアルミを使ったクルマはどこにある?トヨタにあるか!?」なんていってきた。

もちろんそんなのあるわけないけど、そういった「(今までに)ないクルマ」を作りたかったから最初から割り切って、ボンネットには金を使うけれど、それ以外のところは使わないっていうのを決めた。当時はアンテナがモーターでヒューっと上がるのがあったけど、それをねじで自分で回して付けるとか。

「走り」に本質的に関係ないことには手を抜いて、それがダブルウィッシュボーンサスにも繋がった。当時は安くて軽いストラットが主流だったけれど、それでもスポーツカーはダブルウィッシュボーンで行くべきだと主張した。私が設計をしたけれど、最終的には知恵を絞って当時のストラットよりも軽く作れました。

ただ、役員から反対されるから「(平井さんから)説得に行ってくれ」っていわれてたけど、私は絶対負けると思っていたから行きませんでした。 なぜなら相手はストラットのデータを揃えてくる。コストがいくらか、重量がいくらか、ダブルウィッシュボーンと比較した優位性をいってくる。

(完成前の)当時のものは負ける数字しかでなくて、それでもダブルがいいですとはいえなかった。頑張ってやればストラットよりも軽くできるっていうのは私の頭の中にしかないから、それを役員には提案できない。結果的にはオーライと喜んでもらえたと思うけれど、そういった当時の判断基準を乗り越えて、このクルマがあるんです。(※)

平井主査のエピソード


貴島
平井さんいなかったらこのクルマはできてない。もちろん上流(企画段階)の苦労もあるけれど、それを量産にこぎつけるのは違う問題がある。なんていうか、関所があるんですね。 平井さんは本当に、もう命をかけて、エンジニア人生を全てかけるぐらいの思いでやっていましたから。

俣野
そういえば平井さんは「排気音が大事というのなら、参考のエンジン音を録音してこい」っていってきた。 でも、あれは身体全体で・・・お腹で振動を響かせて、耳で聞いて、なんて全部体験しなきゃわかんないから、アメリカに来てくださいていったけど、お盆休みに重なったりして結局1回も来られなかった。

あの後世界中からいろんなスポーツカーのエンジン音を100台くらい集めて、何百人かの人に「目つぶったらどの音が小さいスポーツカーに似合うか」って絞っていった。最後3案の音質を周波数の短いところから分析して、彼なりに「これだ!」っていう音で決めている。

貴島
実はその前に、能舞台の話がありました。能の演者が床で足を打って大きな音を出すのがある。どんと叩く能舞台の下って壺が埋まっていて、陶器の壺が共鳴してボーンと音が大きくなる。迫力のある音を出すためにそこまで調べて、日本文化をロードスターには入れたいという話をしていました。

俣野
人間もそうですよね。変な例えだけど体調によってオナラの音も変わるでしょ。 調子が悪かったら湿った音になる。現在はフェルインジェクションだけどクルマもエンジンキャブレターとか調子が悪かったら音が変わる。で、やっぱり調整していい時は乾いたすごいいい音がする。

だから、クルマの健康はテールパイプの音をしっかり聞けばよくわかる。乗っていても点火時期が変わると音が違うので、そのためにもスポーツカーは身体で感じなきゃいけない。排気音はまさか調律してくれるとか、そういうことまでは全然考えてなかったんですけどね。

アメリカから日本へ継がれたもの


俣野
あの時フォードがマツダに17パーセント出資していたので、うちがこれをやっているの気づかれて、慌てて「カプリ(※)」ってクルマを作っってきた。FFファミリアベースでオーストラリアで作って出してきたんですけど、彼らはうちのタイミング知ってるものだから、半年先に出そうって頑張ってやっていました。

ただ、急いだために不具合が出て・・・ざまみろって。真似したって、FRじゃないんだから、絶対本物になれないなんていってました。

※マーキュリー・カプリ
マツダB型パワーユニットを持ち、BF系ファミリア(1985~1989)のパワートレインを活用して生産されていたアフォーダブルオープンカー。ロードスターの従姉妹(いとこ)といっても過言ではない。
参考リンク:https://mx-5nb.com/2021/12/06/capri/

それと、デザインの観点ではアメリカのデザイン部長だった福田さんがロードスターを提案して、本社でGOがかかった時に会長が彼を日本に戻しました。 彼はずっと・・・本当のゼロからそこに至るまでずっと付き合っていて、それでデザイン本部長になられたので、本社でも彼がデザインの系譜を引き継いでくれたんです。だからNAはずっと続いていて、それがなかったらこういう話にはなっていなかった。


当時、ある晩に検討デザインを福田さんと二人で見に行って、どうしようかね・・・なんていっているうちに、思わず2人でクレーのツールを掴んで、僕は後ろから、福田さんは前から半分まで削っていったんです。無言で1時間ぐらいしたら手を止めて、二人で離れてみたらフロントとリアのカーブがほとんど一緒だった。

普通ならデザインのマネージャーはスケッチを選んで「これで行く」くらいの指示をするのが役割で、気持ちが伝わりきらないままプロポーションが決まってしまうことがあっても、自分が雇っているデザイナーと競合関係になってはいけないので絶対に手は出さないんです。でも、この時はいよいよ持って溜まらなくなって、二人でやったら同じカーブに行き着きました。

このように、意見を交わさずとも、語らずとも大丈夫な関係だったぐらいの人が、 本社に戻って連携をしてくれたとか、本当に色々な意味で条件がうまく合ったからできたクルマだと思っています。

企画から量産へ


貴島
クルマを企画する基本的な流れは、市場全体を見て将来を検討する上流のプログラムがあります。その後、実際に皆さんにお届けするクルマをどう検討するか、ビジネスベースの検討があるんです。

上流の段階では「こういうクルマが流行りそう」という予測をもとにプロジェクトを何個か起こして、クリニック(※)で検証してデータを取っていきます。プロジェクト番号はXから始まるやつですね。量産はPから始まるから、社内ではXなのかPなのかを確認できます。

企画書や図面を見ただけでは分からないからクルマは形にしてみます。ロードスターもイギリスのエンジニアリング企業IADに「こんなクルマを作ってくれ」と委託して、一旦形にしてクリニックに使ったんですね。

※クリニック
実際にクルマを展示して行う市場調査。クローズドな環境で、発売前や開発中の車種の秘匿性を守りながら評価を行う。

実は、その時に私の所へ「どんな足を使ったらいいか?」と相談があったので、RX-7(SA22C)の足周りをスペックに合わせて送ってあげました。時速60キロぐらいで走れるクルマを作ってサンタバーバラ(※)を走らせた。今横浜に(そのクルマが)いるんじゃないかな。ツーシーターオープンだから似てはいますけれど、ニュアンスは全く違っているモデルでした。ロードスターの上流はそこからですね。

その段階から量産に移るとなると、その引継ぎに関しては全く人(スタッフ)が違ってくる。平井さんはPで始まるところに手挙げたんです。彼は石川県に(ディーラー出向へ)行って、トヨタさんと同じではマツダの将来はない。とにかくトヨタ、日産、ホンダにはないクルマが必要だという時に、Xのプログラムを見たら小型のスポーツカーがあった。


これ、最初の提案ではこれオープンカーではなかったんです。それを平井さんが主査を「自分がやる」って手を挙げた。クーペタイプのクルマが3つあったけれど、本人はオープン2シーターと決めていた。並びの参考でオープンカーがいるようなコンペだったけれど、本命はそれだったんです。だから、シビックのようなクルマもあったけれど他は全部当て馬で、本人は作る気がなかった。

平井さんが担当(主査)をすると決まったらすぐにGOサインがかかりそうだけど、そこからもなかなか手強かった。上流までは数十億の予算で出来るけれど、下流(量産検討)になると数百億の経営承認を取る難しさがある。トヨタさんなんかもそこで(多くが)落ちてしまうと思うんです。

でも、平井さんはその数百億の承認を取るところまで行けました。それが平井さんの苦労なんですけども、それはもう本当に厳しかった。今はユーザーの皆さんがロードスターを買ってくれているけれど、今の1/5の台数であっても損をしないクルマを作れという課題が来たんです。

コストを下げなくてはいけないし、台数を売ることも考えなければいけない。そんなステップがあって第3段階までいければある意味でオッケーになるけど、当時は経営状態が厳しかったから銀行さんのジャッジではワンステップ目で駄目といわれていた。そこで予算を得るための予算を組んで、少しづつステップをクリアしていった。

転機となったのは、作っている途中でディーラーにみせたらもう万々歳で「早くしてくれ!」っていわれて、それで(開発を)半年早める羽目になった。これだけ懸命に平井さんが受けていた仕事だから、他のメンバーもみな一生懸命やって、それでクルマの完成が間に合いました。(※)

ミアータデビュー、当時の反応


俣野
デザイン仲間って世界中で結構繋がっているんですけど、ロードスター発表後にMGのデザイナー(※)が「僕らは何年も次のMGBを提案してきたけれど、10年以上潰され続けていた。お前らはどうやってやれたのか」なんていってきたし、その他にも周りから羨ましがられました。

貴島
トヨタさんも86を作るときに「マツダさんはロードスターをどうやって経営承認取りましたか?」って聞きに来ましたからね。同じことがもう当時からあったんですね。

(当時の)トヨタさんはスポーツカーの基準が合わないから潰されていたのかも知れない。だから「赤字で出してるんでしょ」なんていってきたからとんでもないと。一番儲かるクルマですと伝えたら、本当に目を丸くして帰りましたね。どうやってって聞かれても、それは儲かるように作ってますとしかいえないんです。で、最終的には86とスバルのBRZも認められて世に出てきましたね。

※MG
1923年創業、スポーツカーの名門「MG(エムジー)」創業ストーリーは紆余曲折あるが、語源は当時の販売店「モーリス・ガレージ (Morris Garages)」の頭文字から来ている。特徴的なオクタゴン(8角形)エンブレムは、当時を知る人からすれば憧れのバッジであり、ライトウェイトスポーツカーMGBはかつてギネス記録に登録されていた。現在は中国の上汽集団(SAIC)内ブランドとしてアジア・オセアニア市場の高級車開拓を行っている。


俣野
当時、会長が雑誌のインタビューで答えていたのは「あいつらの目を見たらわかる」っていってました。提案したやつの目を見ていたら、これはもうタダモノじゃないから、やらなきゃいけないって(笑)。

逆にいうと、この企画は海外の市場にあったクルマを提案することが大事だったので、7000キロも離れた広島から「アメリカの流行はこうだ」というのは止めろと。だから現地で考えろという話で始まった。で、それをいいことにこっちでは「アメリカなんかでは考えられないクルマを出そう」となって、MPVとライトウェイトスポーツの2種を提案した(※)。

結果「ほら見ろ、広島じゃこんなでっかいクルマはやらないだろう!」なんて、会長が会社を説得する材料にぴったりはまった。 MPVは売れるのがわかっていたから誰も文句いわずに開発が進んだけれど、ロードスターは発表が1年遅れたんですよね。本当はもう1年早くできたけどMPVの開発が先になった。

でも、今考えたら最初に安全策を取ってMPVのみを出して、半年~1年経ってからロードスターを提案したら潰されていたと思います。タイミングが絶妙だったのはもう福田さんの知恵ですけれど、そこをうまく読んで当たったのが本当のことで、それから平井さんが来てくれて。やっぱり、いろんな意味ですごいラッキーなクルマだったな、と思います。

貴島
ラッキーは実力っていいますから(笑)。

俣野
ラッキーっていうか、要素がうまく集まったのとタイミングがね。会長がやりたい時に、たまたま外から入って来た僕なんかがいえることもあったので。

※オフライン55
確率55%で商品化を検討する社内コンペ。軽量スポーツカーの他に「MPV」「キャロル」「AZ-1」などのテーマがあったとされている。参考リンク:https://mx-5nb.com/2022/04/25/duo101/

最後に


俣野
カローラとか、世界で1番売れているゴルフとかありますけれど、あれをやったデザイナーって名前も顔もわからないでしょ。でも、僕みたいに初代から何年経っても、こうやってオーナーと顔を合わせて話せる(トークショーができる)クルマなんて、フェラーリのデザイナーもそんなことないと思うんです。そういう意味で凄い幸せ者なので、本当にありがとうございます!

貴島
ロードスターはマツダが会社としてある限り、たぶん永遠に作り続けると思いますし、皆さんのお孫さんの時代には(ロードスターの)世代が変わっていると思いますけれど、この想いはマツダも伝えていくと思います。皆さんもお子さんに気持ちを伝えて、ずっとマツダをサポートしてください。よろしくお願いします。

以上、トークショーのご紹介でした。

ロードスターのデザインテーマ「ときめきのデザイン」は「トキメキのストーリー」をベースにフォルムに落としていった経緯があり、そのDNAは歴代ロードスターにも引き継がれています。ロードスターはあらゆる偶然や奇跡から誕生したラッキーなクルマとはいわれていますが、こういった背景を聞くと、誕生は必然だったかもしれませんね。

ミアータのフルモデルチェンジは「遠くにクルマが停まっていて100メートルの距離まで近付いたらミアータだと分かる。けれども50メートルの距離まで近付いても1代目か2代目かは分からない。30メートルほどの距離まで近付いたらようやく分かる、そんなファミリールック」といったコンセプトを俣野さんは作成しました。

なお、「トキメキの世界」を英語に置き換えて作られた単語が「Inspired Sensation」です。俣野さんから頂いたサインには「Always Inspired」と書かれていますが、この語源は「トキメキの世界=Inspired Sensation」を表しているとの事です!

Inspired Sensation

Touch and feel of a real sports car; it described the sound of the exhaust note, linearity of the power build up and the Tach-o- meter needle movement, sound of cooling fan, thickness of the shift knob and steering wheel need to feel similar and so on.

The customer takes the car home, and, of course, takes the family for a ride, shows it to their neighbors and friends.Just before retiring to bed, you stop for one last look, and even say “Goodnight” to the car, or maybe even sit in the car one last time.

On your daily route, you start to think more challenging roads….
Or new routes in order to spend more time with the car.

Of course, even with the most prolonged driver/car relationship, there comes time when the owner has to part with the car.You part with fond memories, which will treasure for a long, long time.

Miata was the first product developed under this philosophy, and all the other Mazda cars that followed were products of this philosophy.30 years later, this philosophy lives with All Mazda Cars!

関連情報→

NAロードスターと日本文化

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